証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#56
自分の陳述は一貫し変わっていない
幕田大尉は勤め先の北海道から連行され、GHQに接収されていた東京の明治ビル(現・明治生命館)で調べを受けている。 (検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) 明治ビルでは初め「知らぬ」と言ったが、やがて本当のことを言わねばならぬと思い、司令の命令であったと自白した。明治ビルまで仙台北署の菅○刑事ほか一名に護送されて来たので、逮捕されたものと自分では思っていた。 検事側提出第18号証は調査終了後、大意を知らされたが、これをプリントした英文に署名させられる時には、翻訳して読み聞かされてはいない。自分は斬首したことは強制されたとは言えぬ。 ○○と○○が全責任を負うと言ったので、陳述が変わったのではない。自分の供述は初めから一貫して変わってはいない。 (弁護人の尋問に対する幕田の答弁) ○○から本部に行く時、軍刀を持って行ったのは、戦地では日本海軍では士官は外に出る時は軍刀を携行することになっていた。そして石垣島は戦地であった。 幕田は命令に従うのが当然の海軍で、命令通りに斬首を遂行し、それで個人の責任が問われることがあるとは、全く思っていなかった。 〈写真:石垣島を攻撃する米軍機のガンカメラ映像より(米国立公文書館所蔵 豊の国宇佐市塾提供)〉 横浜軍事法廷で被告を裁いたのは、米軍人で構成される「委員会」だった。検事、弁護人に続き、幕田大尉に対して委員会からの質問が始まったー。 (エピソード57に続く) *本エピソードは第56話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。