証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#56
グラマン機に搭乗していた米兵3人が殺害された石垣島事件。BC級戦犯に問われた特攻隊長、幕田稔大尉は、1948年1月、横浜軍事法廷の証言台に立った。石垣島警備隊の井上乙彦司令から最初に米兵を斬首するよう命じられた幕田大尉は、午後10時過ぎに処刑の現場に到着した。軍事法廷では、検事から現場での様子を細かく質問され、幕田大尉は事実を明確に述べたー。 【写真で見る】死刑を宣告される幕田大尉と見られる男性
誰を処刑するのかは知らなかった
外務省の外交史料館が所蔵している、「本邦戦犯裁判関係雑件 横浜軍事裁判関係 『公判概要』綴(石垣島の部)」には、幕田大尉が1948年1月27日(火)から5日間に渡って証言台に立って述べた要旨が記録されている。3日目の尋問では、具体的な処刑時の状況が聞かれていた。幕田が最初に斬った米兵は、パイロットのティボ中尉だった。 なお、公開されているこの文書は名前がすべて黒塗りで消してある。別に入手した証人尋問などの裁判スケジュールと照らし合わせて、幕田大尉の証言を特定しているが、判明していない黒塗りの名前は○○で表記する。 〈写真:横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)〉 <公判概要 1948年1月29日(木)> (検事の反対尋問続行 幕田の答弁要旨) 自分が処刑場に到着したのは午後10時過ぎで、到着後10分か15分で処刑は終わった。第一の処刑者として現場では何も命ぜられぬ。司令からあらかじめ第一の斬首を命ぜられていた。 どの俘虜が一番はじめになるのかは知らなかった。順序が如何にして決められたかは知らぬ。一番初めに処刑される俘虜が士官であることは、司令から命令を受けた時は知らなかった。 〈写真:死刑を宣告される幕田大尉と見られる写真(米国立公文書館所蔵)〉
石垣島は毎日空襲 交通途絶で食糧不足
(検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) 下士官兵数名が一人を穴の側へ連れて来た。誰が連行を命じたか知らぬ。現場で指揮していた者はなかったと思う。自分は指揮権を持たなかった。但し実際指揮していたのは、○○であった。 石垣島は当時、毎日空襲を受けていた。空襲により○○部隊では、それ程、戦死者は出なかったと思う。軍需品の被害は、自分は○○部隊の事しか知らぬが、防空壕に入れていた為、大した被害はなかった。 自分の隊も本部の隊も復讐心は持たなかったと思う。○○少佐、○○大尉か、空襲で戦死したことは聞いた。囚人等の名は聞いていたが、話したことはなかった。食糧は大変欠乏していたが、それは石垣島に陸海軍が相当数いて、島の産物では賄えずに内地台湾との交通が途絶したためである。 〈写真:横浜軍事裁判関係「公判概要」綴(石垣島の部)〉