海外の日本人コミュニティーを支えた邦字紙、苦境から未来をつなぐ
「バンコク週報」が窮地に立たされるなか、2012年に社長に就任した臼井さんは思い切った決定をする。紙面の発行をやめたのだ。無料のウェブサイトと定期購読者向けのpdf新聞へと転換した。 「紙をやめるなんて想像もしていなかったから、勇気がいりました。これでいいのだろうかと、ずいぶん悩みました。でも結果として、やってよかったと思っています」 印刷コストだけでなく、配送にかかる人件費や燃料代、倉庫代などが削減できる。「バンコク週報」は、日本や在中国の日本人にも購読者が多いが、その発送経費もかからなくなる。 経営の多角化も同時に進めた。40年以上にわたりタイ経済と日系企業の動向を見てきた「バンコク週報」のブランドを生かして、タイ進出のコンサルティングや、会計のアウトソーシングといった部署を立ち上げ、新しい事業を展開していく。 「花と実で言うなら、新聞は花です。花があるから人が集まってくる。そして実があるから花が咲く。私の仕事は、実のほうを大きく育てていくこと。両方の相乗効果が大切なんです」 その戦略で、生き残りを図っていく。
コロナ禍直撃で紙面発行停止「まにら新聞」
東南アジアではフィリピンの「まにら新聞」も2021年末で紙面の発行を停止した。ウェブ版はなんとか残っているものの、経営は厳しい。 「もともと苦しかったのですが、コロナ禍で購読者も広告も減るばかり。赤字が倍増しました」 紙面版の最後の編集長を務めていた石山永一郎さん(64)は言う。おもな読者は日系企業の日本人駐在員だが、コロナ禍で大きく減った。20ほどの大手ホテルと契約、日本人宿泊者の部屋に毎朝紙面を届けるサービスも好評だったが、コロナ禍の出入国制限が直撃。まにら新聞の売り上げの4割を占めていたホテル需要は消えてなくなった。日本人向けの飲食店から多かった広告出稿も、コロナによる営業規制で激減した。
創刊は1992年。その源流は、ネットの普及していない時代から、世界の海を航行する日本の船舶に向けて共同通信が配信しているファクス新聞だ。共同通信OBだった当時の社長、野口裕哉さん(故人)がこれと提携した。加えて共同通信マニラ支局が執筆した記事も掲載し、「Kyodo News Daily」として発刊。 「100部、200部からはじまったのですが、すぐに1000部を超えるくらいに伸びました」 そこで専属の記者を雇い、自社でも取材と発信を開始。名前を平仮名の「まにら新聞」と変えたが、これは戦時中、フィリピンの日本軍政下時代にあったという邦字紙「マニラ新聞」と区別するためだったとか。 ときには国際的なスクープを飛ばした。2017年、中華系フィリピン人の団体などの要請で政府機関がマニラ市内にフィリピン人慰安婦の像を建て、アジア各地でニュースになったことがあった。しかし遺憾の意を表した日本政府に配慮する形で、フィリピン政府は像を撤去。これをいち早く取材したのが「まにら新聞」だ。日本や欧米の大手メディアがいっせいに後追いをした。