海外の日本人コミュニティーを支えた邦字紙、苦境から未来をつなぐ
紙面をやめ、多角経営で生き残るタイ「バンコク週報」
海外で発行された初の邦字新聞は、アメリカ・サンフランシスコで1886年(明治19年)に創刊された「しののめ」だといわれる。それから南北アメリカ大陸やハワイなど、日系移民の増えた土地で、さまざまな邦字紙が発行されてきた。 高度経済成長期になると、今度はアジア各地に日系企業の進出が進む。時流に乗ったのが、タイの「バンコク週報」だ。東南アジア初の邦字新聞として、1976年に創刊された。当時の名前は「週刊バンコク」。 「その頃、タイに進出してきた日系企業が100社、在タイ日本人が3000人を超えたことを機に、タイの政治や経済についてのニュースを日本語で知りたいという声が高まっていたそうです」 そんなことを初代社長から聞いたことがある、と話すのは現社長の臼井秀利さん(54)だ。1985年のプラザ合意によって円高となってからは、製造業のアジア移転はさらに進む。とりわけタイは国を挙げてサプライチェーンの誘致に力を入れたこともあり、日本の自動車産業の一大拠点として成長していく。首都バンコクの近郊には巨大な日系の工場群が立ち並ぶようになる。
「そんな工業団地の広告が面白いように取れましたね。購読者数もどんどん増えました。大手の日系メーカーや商社の中には、一社で200人くらいの日本人がいるところもありましたが、こうした会社がたくさん購読してくれるんです」 臼井さんが営業社員として入社したのは1990年。すぐにバブル崩壊を迎えるが、それでもまだまだ日系企業の景気はよかった。タイの経済発展とリンクするように進出する日系企業は増え、彼らの必要とするタイ経済や社会の記事を掲載し続けてきた「バンコク週報」の業績も伸びていった。最盛期の1995年頃は、公称2万部を売り上げた。 しかしタイに住む日本人の急増は、新しい現象を生み出す。競合する日本語の媒体が一気に増えたのだ。2010年代になるとタイにある日系企業は5000社、在タイ日本人は7万人を突破したが、その流れのなかでほかの邦字紙やフリーペーパーも次々と創刊され、広告のパイは奪い合いになる。さらにネットの普及による紙媒体離れは、タイの日本人社会でも広がっていく。