「面白みは枠があるときに見つかる」。作詞家いしわたり淳治の言葉との向き合い方
僕という自動販売機
―音楽と歌詞について考察した【うなる歌詞】の章では、シリアスになりすぎることで失われるものや、力を抜くことの難しさにも触れていました。楽しむことと真面目にならざるを得ない部分のバランスはどのようにとっていますか? いしわたり:面白みってある程度枠があるときに見つかると思うんですよ。こういう曲を書いてください、これはこういうドラマの主題歌ですと依頼されたときに、世界観みたいな枠は大体決まってくる。真面目にやるならその枠の真ん中を目指せばいいけれど、そこでできるだけ隅っこまで行くのが面白いんです。でも枠がないと真ん中がどこなのか判断できないので、隅を攻めることが面白いかどうかもわからないんですよね。そういう意味では枠を作ることでバランスを取っているのかもしれないです。 で、ちょっと変な話ですけど、僕は歌詞や仕事の依頼を受けたときに、自分が頼まれているとは思っていないんですよね。僕という自動販売機みたいな人がいて、そこにオーダーを入れたら何かが出てくるという感覚で、僕自身はその機械のメンテナンスをしている人といいますか。自分から何が出てくるのか自分でもわかっていなくて、どこかそれを面白がっているところもあって。この感覚ははっきり認識していなかったり言葉にしていなかったりするだけで、誰にでも少なからずあるものだと思うんです。 ―個性や自分らしさをわかっていることのほうが求められている空気があるので、感じてはいても自覚しづらいのかもしれません。 いしわたり:大前提として自動販売機のメンテナンスってものすごく地味な作業なんですよ。時代に沿って自分をアップデートし、壊れないで正常に動く状態をキープしてきた結果が「スマホ2台持ちでテレビを見る」みたいな謎の状態になっているわけですけど、これがメンテナンスだなんて誰も思わないですよね。自分で自分を面白がるというと、軽やかに人生を楽しんでいるように聞こえるかもしれないけれど、その裏には地道な何かがあるんですよということは言えると思います。