スーパーGTでのラストレースに臨むロニー・クインタレッリが引退の理由、今後を語る。引退のショックを乗り越えられたファンからの声
12月7~8日、三重県の鈴鹿サーキットで開催されるスーパーGT第5戦鈴鹿『SUZUKA GT 300km RACE GRAND FINAL』の開幕を前にした12月6日、2024年限りでスーパーGTから退く決断を下したMOTUL AUTECH Zのロニー・クインタレッリが、メディアを前にして決断に至った理由、そして今後について語った。 【クインタレッリがドライブするMOTUL AUTECH Z】 クインタレッリは2011年、2012年、そして2014年、2015年とGT500クラスで最多の4回のチャンピオンを誇る。2008年からニッサン/ニスモ陣営に加わり、2013年からずっとエースカーである23号車をドライブしてきた。 そんなクインタレッリの引退発表は大きな反響があったが、そのラストレースとなる12月7~8日のスーパーGT第5戦鈴鹿を前に、多くのメディアが集まるなか、クインタレッリはまずは自らの口から、冗談を交えながら説明をはじめた。 * * * 皆さんこんにちは。スーパーGT最終戦の金曜で忙しいなか、集まっていただきありがとうございます。今シーズンは僕のここまでの成績でなかなかメディアの皆さんから注目されなかったので、質問されるために何をすればいいかな、といろいろ考えて『やっぱり引退しかないな』と。大成功でした(笑)。 11月20日、ニッサン/ニスモ、そして僕からスーパーGTでの活動終了を発表して、みんなからどれくらい反響があるかな? と思っていたんです。『ちょっとくらいかな』と思っていたら、僕のファンを含め、スーパーGTのファンの皆さんから温かいメッセージなど、たくさんの反響があって、正直ちょっとビックリしました。感動しました。 2003年に初めて日本に来て、2005年にスーパーGTでデビューして、今シーズンを含めて20年間、素晴らしい舞台で活躍することができ、改めて振り返って本当に良かったですし、いろんな方に感謝したいと思います。 今週末はまだ最終戦が残っていますが、本来なら最終戦は11月のもてぎでした。でもたまたまなのか、神様が僕に味方してくれたのか、先日のニスモフェスティバルに続き、翌週に鈴鹿でファンの皆さんに僕の走りをみせることができるのは本当に嬉しいです。申し訳ないのですが、8月末の台風に感謝しています(笑)。 ニスモフェスティバルのときは、たくさんのファンの皆さんがピットウォークをはじめ、搬入日ですら僕を見かけて気がついてくれたり、最後のフィナーレを含めて、本当に温かい皆さんからの支援を感じました。ファンの皆さんからパワーをもらったので、今週末はすごく元気です。明日、明後日までもつかは分かりませんが(笑)、この元気さがあれば、週末はロニーらしい走りができると思います。とにかく最後は、ニッサン/ニスモ、チームメイト、いろんなチームと戦っている人たちと一緒になって、一丸になって良いレースにしたいと思います。 * * * ■スーパーGTからの引退を決めた理由 ここからは、メディアからの質問が行われた。 ──まず引退を決めたのが理由を教えてください。 今シーズンはご存知のとおり、23号車を引き続きドライブしていましたが、チームメイトが変わったり、タイヤが変わったりしました。僕は12年間ずっと23号車をドライブしていたものの、今シーズン、初めて千代(勝正)選手をファーストドライバーとして、僕はセカンドドライバーという立場で関わっていました。 始まってみたら千代選手の速さ、モチベーションはものすごいもので、ひさしぶりに僕がチームメイトについていけないくらいでした。僕はモチベーションについては、まわりから今まで『すごい』と言われていましたが、今年は逆に僕がちょっと物足りないくらいでした。 シーズンがスタートしたら、今まではいつも23号車に乗って、チームの皆さんからも注目され、期待をかけられ、僕もそれに応えて戦うことができていましたが、理由は分からないのですが、今シーズンはクルマに乗るたびにマイナスばかりで、僕の表情が分かる人は分かると思いますが、予選含めて僕のなかで悔しい場面がありました。今シーズンは予選、決勝とも僕の自分への評価がすごく低かった。23号車のドライバーとしてパフォーマンスを出さなければいけないのは当たり前だったんですけど、正直今シーズンはずっとダメでした。 僕はレースウイークに入る前の準備など一生懸命やっていて、フィジカルの準備や食事など、スーパーGTのために一生懸命やってきました。第3戦鈴鹿まではまず線を引いて、その後の第4戦富士まで1か月くらいあったので、そこで一度イタリアに帰ったりしてリフレッシュしたんです。千代選手も一緒にイタリアに来てくれて、第4戦富士からみんなでチャンピオンを獲ろうとみんなで話していたんです。 でも、8月の第4戦は今シーズンでいちばんダメなレースでした(※予選11番手/決勝13位)。今までどおりにしていても速さに繋がらない。自分でも初めてのことで、すごくショックでした。これはダメだなと。チームにも大迷惑をかけてしまうし、そこから活動を終えることを考えました。 最終的に決めたのは第8戦もてぎの後ですね。オートポリスでは僕も微妙なパフォーマンスで、昨年までの本来の僕のパフォーマンスだったら優勝が獲れたと思うんです。でも2位で、みんなで悔しい思いをしました。それでももてぎで表彰台や優勝が獲れればチャンピオン争いの権利があったのに、もてぎでは噛みあわずあの結果(※決勝9位)になってしまい、ニッサン/ニスモのエースカーの23号車がチャンピオン争いから脱落してしまった。 それで、僕は『責任を取って下ります』と伝えました。ニスモからも言われるかもしれなかったけれど、もてぎでのレースを終えてから打ち合わせをして、ニスモも決断を尊重してくれました。そういう流れでした。 昨年の12月に、今シーズンに向けてニスモと契約をしたときに、『僕はとにかく自分のスーパーGTのキャリアを23号車で終えたい』と伝えていて、ニスモもそれを理解してくれていました。30代だったら、もう一度別のチームに移籍するなどの決断もあったかもしれませんが、45歳で別のチームに行って、どんどんパフォーマンスが悪い方に行ってしまったら、まわりに迷惑もかかってしまうし、ファンの皆さんにもカッコ良く見えない状況でキャリアを終えることになってしまう。 とにかく『23号車でキャリアを終えたい』と決めましたが、決めた直後は何日間も寝られないくらい自分の中でもショックでした。悔しかったです。でも、ファンの皆さんがいろんなメッセージを送ってくれたり、他のドライバーたちが良い言葉を言ってくれたので、乗り越えることができました。 それで前向きになることができましたし、ニスモフェスティバルでファンの皆さんからの生の声を聞くことができて元気になることができました。でも、このレースウイークはまたいろんなエモーショナルな気持ちが出てくるかもしれません。僕の感情がどうなるかは分かりませんね。 ■家族の反応、そして2025年以降のプランは ──その決断を家族に伝えたときの反応を教えてください。 まずは妻と話をしましたが、彼女はレースのことをすごく詳しいので、僕の日常、僕なりの頑張りや努力をそばから見てくれています。僕はレースが終わって自宅に戻っても、なかなかオンオフができないタイプで、結果が悪いとかも分かるんです。妻は走りを中継などで観てきていましたが、僕の走りも今までと違うな、というのも分かっていたと思います。だからこの決断も想像していたと思いますので、『お疲れさま』と。 いちばん辛かったのは僕の息子に伝えるときで、小学生の息子は小さい頃からずっとスーパーGTを観ていて、大ファンなんです。今シーズンもレースに出かける前の日とか『パパ、頑張って』とか『プレイステーションで僕は鈴鹿が上手だから教えた方がいい?』とか声をかけてくれたりしたんです(笑)。だから、彼にどう伝えればいいか、泣かれるかもしれないと思っていましたけど、意外とショックではなかったみたいで、納得してくれてひと安心でした。 ──2025年以降のスーパーGTにはどう関わっていくのでしょうか。またレーシングドライバーとして、他のカテゴリーに出るなどプランはありますか? 正直言うと、僕のなかではまず最終戦まで今までどおりスーパーGTに集中して、全力で戦うことを考えていました。来年のことを考えたりしていると、時間をとられてしまったりと最終戦に向けて自分のなかではベストなかたちで臨めないという気持ちがあったので、最終戦が終わってから考えようと決めています。 スーパーGTで言うと、まわりからはGT300クラスで戦うなどの話もありますが、僕としてはスーパーGT全体としての活動を終えることにしました。僕はずっとGT500クラスでやってきて、素晴らしい体制で戦うことができた。僕は子どもの頃からずっとワークスチームでやってきていて、1996年のビレルワークスの頃から、それから30年くらい経っています。 スーパーGTは世界を代表するレースで、ここでの活動はいったんここで終わり。他のカテゴリーは……そうですね。僕はここまでずっと頑張るために身体づくりをしてきましたが、急にレースを止めると1年後くらいに『ロニー、なんでこんなお腹出てるの?』と言われそうなので(笑)。それはイヤだから、もう少し気が楽なレースに機会があれば出るつもりです。 僕の家族は日本に住んでいますし、皆さん分かると思いますが、僕は日本が大好きなんです。日本のレースはスーパーGTだけじゃなくて、他にもカテゴリーはありますからね。スーパー耐久だったり、機会があれば出たいと思います。 ■最も印象に残っているレース、シーズンは ──今までのキャリアで、いちばん印象に残っているレースを教えてください。 僕は日本に来てから、『結果を出さないと次がない』という場面がいくつかありました。全日本F3のときは、INGINGの2年目でチャンピオンを獲らないと次のステップアップができないのではないかと思いましたし、全日本F3のシリーズ最終戦のMINEで、すごくクルマが決まっていて、チームのホームコースでチャンピオンを獲れたことが思い出にあります。僕にとってもフォーミュラでの初チャンピオンでしたし、第一歩を踏み出せた大事なレースでした。 その後はフォーミュラ・ニッポンにステップアップして、GT500に少し出たりしましたが、2007年のフォーミュラ・ニッポンでの初優勝は大きかったです。INGINGもフォーミュラ・ニッポンで2年目でしたし、チームにとっても自分にとっても初優勝でした。そこですごく注目をもらえましたし、そこでニッサン/ニスモからも注目してもらえた。 先日ニスモフェスティバルでも言いましたが、F3の頃からニッサン/ニスモはやはり日本ではファンの人たち含めて特別で、機会があればニッサンに行きたいと思っていたので、フォーミュラ・ニッポンでの優勝がきっかけで実現することができました。 スイマセン。ちょっと長くなりますけど(笑)。 2008年、ハセミモータースポーツでGT500クラスでの初ポールポジション、初優勝を飾ることができました。長谷見(昌弘)さんもすごく喜んでくれたし、ニッサン/ニスモのなかでもリスペクトを得ることができました。そこから2~3年、チームメイトやタイヤが変わったりと、簡単ではなかったですけど、2008年の優勝で土台を作ることができました。 ニッサンでのターニングポイントになったのは2011年ですね。S Road MOLA GT-Rで柳田マー(柳田真孝)と組んで、2年ぶりにミシュランタイヤを履いて。まだ覚えているんですが、その時山口県の友だちから『またチーム変わったの?』と言われて、同じくGT500に新規参戦だった『バンドウには勝たないと』と言われていたんです。 でもフタを開けたらクルマがとんでもなく速かったし、マーとの相性も抜群でした。それにあの年は東日本大震災があって、日本にとって特別な年で、いろんな思いがあった中で奇跡的なタイトルを獲ることができた。あの年はそれはすごかったです。すごい。本当に2011年は特別でした。 ……その後は流れだね。流れ(笑)。 ──最後に、この記者会見でも素晴らしい日本語で話してくださいましたが、長く日本でレースをされてきて大事にしている言葉、もしくは好きな日本語を教えていただければと思います。 好きな日本語は『験担ぎ』(笑)。2011年、まだMOLAにいたときに、MOLAの花輪(幸夫)社長……最近あまり見かけませんけど(笑)、一緒に新幹線に乗っていたときに、『ジンクスって言葉知ってるか?』と言われたんです。そこで僕が『験担ぎですか?』と言ったら、花輪社長が『そんな言葉まで知ってるのか』とすごく驚いて。その花輪社長の反応を見てから、じゃあこれをいちばん好きな言葉にしようと思いました(笑)。 (※ここで会見は終わったが、長年クインタレッリを撮り続けているフォトグラファーから「ロニー、そこは『アリエナイヨ』だろ!」というツッコミあり。「僕も丸くなったから(笑)とクインタレッリ) * * * レースを前に、終始にこやかな表情で心境を語り続けたクインタレッリ。その人柄こそが彼を惹きつける魅力のひとつだ。そして、そのクインタレッリの表情のひとつが、ステアリングを握ったときのファイターぶり。そんな彼の魅力をこのラストレースで目に焼き付けたい。 [オートスポーツweb 2024年12月06日]