「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする
なぜか癖になってくる「悪文」
内閣総理大臣も務めた吉田茂の長男で、英文学者・評論家・小説家の吉田健一は、最近一部で再評価が著しい作家ですが、敢えて言えば「悪文」で有名でした。これまでと同じく書き出しを二つ、引用します。 この頃の東京は東京でないと言ってしまえば簡単である。併しそれで東京に住んでいるものはどうすればいいのか。尤もその場合も色々と分けなければならないに違いなくて、そこに住むものの多くが今日では自分がどこにいようと全く無頓着な人種である時に東京がどんなであっても少しも構わない訳であるが、それが東京にとって別に喜ぶべきことなのではない。どこの町でもそこが他所でも構わない人種というのは有難くないものでそういう人間の数が殖えるに従って町が町らしくなくなる。これは全く妙なものである。又そんな風に町が町でないのがやり切れないものも別にいて、そこが曾てはその町だったことを知っているものにとってはなお更である。それでどこでもそこの地着きのものがいなければならないということになるのであるが、ここでもとの話に戻って、それならば東京に長年住み馴れて今でも東京にいるものはどうすればいいのか。(「絵空ごと」) 朝になって女が目を覚して床を出る。その辺から話を始めてもいい訳である。そこは鎧戸とガラス窓を締めてレースのカーテンに重ねて濃紺の糯子のカーテンを夜になると張るのが東側の窓だけ糯子のカーテンの方が引いてあるのは女がそこを通して朝日が僅かに部屋に洩れて来るのを見るのを朝の楽みの一つに数えていたからだった。この女の名前が民子というのだったことにする。別に理由があることではなくて、そのことで序でに言うならばこの話そのものが何の表向きの根拠もなしにただ頭に浮んだものなので従ってこれは或は本当のことを書いているのかも知れない。尤も本当ということの意味も色々ある。 朝日が鎧戸の羽板の隙間とガラス窓とレースを通して差し込むのは部屋の中を明るくするという程のことはなくて寧ろ微光を放つ靄のようなものが窓の辺りに漂い、それでものが見えるのであるよりも光が眼に映る感じしかしない。併し全く見えないのでもなくて何がどこにあるのか、或はそうした観念に近いもの、もし観念が形を取るものならばこうもあろうかと言った状況は掴めてそれで例えば鏡台の鏡とその縁と台が藍色掛った鼠色の地に銀箔で模様を押した壁紙の壁を背に部屋の窓と反対側に置いてあるのにもし起きて行っても突き当る気遣いはなかった。その鏡も薄く光り、壁紙の銀箔が黒く銹び掛っていてまだ銹びていない部分も模様を浮き出させているようで部屋は日光に塵が舞っているのが見えるのと違って眼に見えない位小さな塵の一つ一つが光であるのに似たものに浸されてそれが窓の所から順に影を増していて、それでもそれは黄昏のでも昼間のでもない朝の光だった。(『本当のような話』) 後の方はかなり長く引きました。どうでしょうか? 文章の長短はバラバラですが、全体としてリズムがおかしい。読点の少なさも読みにくさの一因ですが、もはやそういう問題ではないとさえ思えます。いわゆる「上手な文章」の対極にあるものと言ってもいい。もっと言うなら、これは「下手な文章」です(貶しているのではありません! )。文章教室でこんなのを提出したら、添削で真っ赤になって戻ってきそうです。 しかし、これがなぜだかだんだん癖になってくるのです。吉田健一の著作はここのところ何冊も復刻されていて、つまり人気があるということですが、英国ものや食にかんするエッセイではここまでではないものの、どれも基本的にこのような「悪文」で書かれています。批評も同様で、時間にかんする思弁を綴った最晩年の長編評論は、こんな一文で始まります。 冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。(『時間』) 吉田健一は、その毛並みの良さと、古き良き時代の特権階級ならでは余裕綽々たるライフスタイルによって今なお多くの読者を持っていると言えなくもないですが、私は何よりも彼の「悪文」に、文章の「下手さ」に、強く惹きつけられます。そしてそれはかつての蓮實重彦や金井美恵子のあからさまに意図的な「読みにくさ」とは、どこか違うように思えるのです。もっと自然な不自然さというか……「上手な文章」の話が、気づけば「下手な文章」の話になっていました。 (第4回 了)
佐々木 敦