「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする
長短の伸縮自在だった名文家
昨今は文芸雑誌などでも言及されているのをあまり見ないですが、石川淳という小説家がいました。1899年に生まれて1987年に没した、存命中は文壇での評価も商業的な人気も高かった人です(1980年に出した長編小説『狂風記』はベストセラーになっています)。私は10代の頃に石川淳の作品をまとめて読んだのですが、とにかく書き出しの鮮やかさが印象的でした。 国の守は狩を好んだ。 (「紫苑物語」) ここに切りひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう。 (「鷹」) 佐太がうまれたときはすなわち殺されたときであった。 (『荒魂』) まず水。 (『至福千年』) 「まず水。」の続きは「その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。」です。カッコ良いですよね! まさに短文の鋭い切れ味で勝負しているというか。しかし石川淳の小説の書き出しは、短い文章だけではありません。 判りにくい道といってもこうして図に描けば簡単だが、どう描いても簡単にしか描けないとすればこれはよほど判りにくい道に相違なく、第一今鉛筆描きの略図をたよりに杖のさきで地べたに引いている直線や曲線こそ簡単どころか、この中には丘もあるし林もあるし流もあるし人家もあるし、しかもその道をこれからたどらねばならぬ身とすればそろそろ茫然としかけるのだが、肝心の行先は依然として見当がつかず、わずかに測定しえたかと思われるのは二つの点、つまり現在のわたしの位置と先刻電車をおりた国分寺のありどころだけであった。(「山桜」) わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口でもあるかのようにわたしという溜り水が際限もなくあふれ出そうな気がするのは一応わたしが自分のことではちきれそうになっているからだと思われもするけれど、じつは第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志などのない混乱におちいっている証拠かも知れないし、あるいは単に事物を正確にあらわそうとする努力をよくしえないほど懶惰なのだということかも知れない。(「佳人」) これらは初期の作品なので、作家歴とともに文章がシャープになっていったという見方もできますが、ここで言いたいのは、石川淳という作家は短い文章も長い文章も書けたということです。名文家と呼ばれることも多かった人ですが、その文章は伸縮自在、変幻自在で、物語の内容以前に、ことば(の流れ)が読者に与える効果が緻密かつ大胆に計算されています。