「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする
読者をふるいにかける「読みにくさ」
金井美恵子の長文と、よく並び称されるのが、初期の蓮實重彦の文章です。 たとえば批評をめぐって書きつがれようとしながらいまだ言葉たることができず、ほの暗く湿った欲望としての自分を持てあましていただけのものが、その環境としてある湿原一帯にみなぎる前言語的地熱の高揚を共有しつつようやくおのれを外気にさらす覚悟をきめ、すでに書かれてしまったおびただしい数の言葉たちが境を接しあって揺れている「文学」と呼ばれる圏域に自分をまぎれこまそうと決意する瞬間、あらかじめ捏造されてあるあてがいぶちの疑問符がいくつもわれがちに立ち騒いでその行く手をはばみ、そればかりか、いままさに言葉たろうとしているもののまだ乾ききってもいない表層に重くまつわりついて垂れさがってしまうので、だから声として響く以前に人目に触れる契機を奪われてしまうその生まれたての言葉たちは、つい先刻まで、自分が言葉とは無縁の領域に住まっていたという事態を途方もない虚構として忘却し、すでに醜く乾涸びたおのれの姿をもはや郷愁すら宿ってはいない視線で撫でてみるのがせいぜいなのだが、そんなできごとが何の驚きもなく反復されているいま、言葉たるために耐えねばならぬ屈辱的な試練の嘆かわしい蔓延ぶりにもかかわらず、なお「批評」をめぐって書きつがれる言葉でありたいと願う湿った欲望を欲望たらしめているものが、言葉そのものの孕む不条理な夢の磁力といったものであり、しかも、その夢の目指すところのものが、言葉自身による「批評」の廃棄というか、「批評」からそれが批評たりうる条件をことごとく奪いつくすことで「批評」を抹殺し、無効とされた「批評」が自分自身を支えきれずに崩壊しようとするとき、かりに一瞬であるにせよ、どことも知れぬ暗闇の一劃に、人があっさり「文学」と呼んでしまいながら究めたこともないものの限界、つまりはその境界線を投影し、かくして「批評」の消滅と「文学」の瞬間的な自己顕示とが同時的に進行すべく言葉を鍛えておきたいという書くこと の背理の確認であるとすれば、誰しも、おのれ自身の言葉の幾重にも奪われているさまに改めて目覚め、書き 、そして、読む 、ことの不条理に意気阻喪するのもまた当然といわねばならぬ。 (『表層批評宣言』、斜字部分は原文に傍点) 私は「ことばの学校」を始める前、かなり長く「批評の学校」を主宰していました。そこでいつも最初の段階で受講生に読んでもらっていたのが、この文章です。蓮實重彦の批評家としてのマニフェストというべき書物からの引用ですが、ある意味で書かれてあること(も捉えがたいですが)以上に、このおそるべき長さにやられます。初期の蓮實の映画評論には、雑誌連載がすべてひとつながりで書かれているものもありました(『シネマの煽動装置』)。 蓮實重彦と金井美恵子の文体意識には明らかに共通するものがあります。長いということだけでなく、過剰なまでの「読みにくさ」への志向という点で、二人は同じ側に立っていると言えます。読者をあからさまにふるいにかける、このようなスタイルは、現在では不評だと思いますが、ここで押さえておきたいことは、ひとつの文章の長さは、たぶんに恣意的で人工的なものなのだということです。 自分にとって心地よい一文の長さ、それによって生まれる好ましい文章のリズムというものはあると思いますが(そしてそれは人によって異なります)、しかしそれは意識的に操作可能です。文章を短く切ることがよしとされる現在の風潮だからこそ、逆に「できるだけ一文を長く書いてみる」というレッスンが、自分の文章に個性を宿らせるために役立つこともあるのではないかと思います。