「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする
カメラの長回しに喩えられた長文
別の例を挙げましょう。今度は「とにかく長い文章」です。金井美恵子の小説は、最近は昔ほどではないですが、一文が非常に長いことで知られています。その傾向が最も極まっていた時期の作品の、やはり書き出し部分を引いてみます。 柔らかい土をふんで、そうでなくとももともと柔らかいあしのうらは音など滅多にたてずごく柔らかなふっくらとして丸味をおびた肉質のものが何かに触れる微かな音をたてるだけなのだが、固いコンクリートや煉瓦の上や、建物の一階分だけ正面の壁と床にチェス盤のようにだんだらに張った灰色と黒の大理石ーー小さな三葉虫の化石の断面が磨かれた石の表面に浮びあがっていることを教えてくれたのは、一週間おきに日曜日ごとの午前中に清掃会社から建物の廊下と窓を掃除にくる青い色のつなぎ服(襟のところに赤い線があって、胸に赤い色で会社の名前がローマ字で書いてあるのだが、それをわざわざ読んでみた ことはない)を着たカタコトの日本語を喋る青年だったか(いつもカセットで台湾語か中国語の流行歌手の歌う歌をヴォリュームをあげてかけっぱなしにしていて、それは時々、知っているメロディーのことがあり、夕方散歩に出て気がつくとその歌をーーあいたい人はあなただけわかっているのに心の糸が結べない――口ずさんだりしていることがある)それとも新聞配達の青年だったろうか――には三葉虫の形がきれいに浮びあがっていて、夏でも冷んやりとしているのだが、固いコンクリートの上や大理石の上を歩く時には、前肢の爪を物をつかもうとする時のようにいくらか広げて伸ばし気味になるので、微かにカチカチと鳴る乾いた音、薄紫がかった中が空洞になって幾重にもキチン質の組織が重なった半透明の小さな鉤爪の尖端が固い床に触れる音をたてるのだが、今は柔らかい湿った赤土のように見える散りおちた赤茶けた松葉の混った土地の上を忍び足ではなくゆったりとして落ち着きはらった足取りでゆっくりと歩いて湿っててザラザラしたオレンジ色の鼻孔を少しふくらませ白く光っているヒゲの先きに小さな水玉をきらめかせながら猫がやって来るのが見え、 朝日のあたっている煉瓦で周囲を敷きつめた池のはたでたちどまり、煉瓦一個 の横幅分の高さの縁が、長方形の丁度畳で三畳分の大きさの姫睡蓮の葉の浮ぶ池の周囲にはあり、夏の夜になると、青白いほうっとした生ぬるい水のような (「柔らかい土をふんで、」) 途中で切ってしまいました。引用は、この小説が冒頭に据えられた同題の連作短編集の河出文庫版の最初の2ページですが、ここまででまだ一度も「。」がなく、この文章はあと3ページ半も続きます。「( )」や「ーー」も使用されているので余計に入り組んでいますが、とにかくものすごく長い。この異様に息の長い文章は当時、一部の論者が映画のカメラの長回し、ワンシーンワンショットに喩えたりしていました。 さすがにすごく読みにくいと感じる人も多いと思いますし、率直に言って私もそう思いますが、金井美恵子はむろん意図的にこのような長文を選んでいるわけです。『柔らかい土をふんで、』という本は、全編がこのような「長くて読みにくい文章」によって書かれています。しかし頑張って読み進めていくと、次第にこの独特過ぎる文体にも慣れてきて、同じ場面を映画に撮ったのを見るよりもはるかに豊かなイメージが、読み手の脳内に立ち現れてきます。