「かつては普通の生活商店街だった」――横浜中華街165年の歴史を辿る
かつては生活者のための商店街。観光客が訪れる場所ではなかった
後に横浜と香港・上海の間に定期航路が開通すると、洋裁・ペンキ塗装・活版印刷といったさまざまな技術を持つ華僑が続々と横浜にやってくるようになります。また、北海道産のアワビやナマコといった中国で人気のある食材を逆に香港・上海に輸出する拠点にもなり、中国と日本との貿易を加速させたのもここ横浜中華街でした。 そんな中、横浜に移り住んだ華僑たちの暮らしに重要だったのはやはり「食」。 前述の三把刀のうちの料理人たちが中華料理店がオープンし、それまでの日本にはなかった中国式の料理をあくまでも華僑向けに始めたと言われています。 呉さんがオーナーを務める中華街大通りのレストラン「一楽」は90年以上続く老舗ですが、開業当初はエリア内はまだ「地元の人たちのための商店街」といった雰囲気で、今日の観光スポットのような賑わいは全くなかったと言います。 「親父から伝え聞いた話ですけど、うちの店の開業当初は中華料理店も10軒ほどだったそうです。もっと後で僕が生まれてからも、横浜中華街は今のような雰囲気ではなく、あくまでも地元の生活者のための商店街で、エリアには銭湯や映画館があるような普通の街でした」(呉さん)
数々の震災や戦争を経験し、日本人とは別のカタチで翻弄され続けた華僑たち
前後しますが、1923年に起きた関東大震災が発生。古いレンガ造りの家屋が密集していた横浜中華街エリアも大打撃を受け、多くの華僑が命を落としました。また、1937年には日中戦争が勃発。華僑にとっては祖国と居住国が戦火を交えることで、苦渋に満ちた立場に立たされることにもなりました。 また、第二次世界大戦末期の1945年5月には米軍からの大空襲を受け、特に横浜中華街は一面火の海になるなど、日本人とはまた別のカタチで歴史や災害に翻弄され続けました。 しかし、戦後復興期には横浜の港が拠点となり、中国と日本の貿易が再開。また、進駐軍向けのバーなども出始め、さらに朝鮮戦争が勃発すると、日本から戦地へと赴く米軍兵や船員で賑わいました。 ただし、この戦後復興期にあってもまだまだ一大観光地としての顔は持たず、あくまでも生活者の商店街である一方、夜になれば米軍兵が行き交うというややシュールな独特の街並みだったと言います。では、どの時代から今のような観光地としての飛躍を果たしたのでしょうか。 「戦後の復興、経済成長とともに横浜中華街も復活していきましたが、決定的だったのは1972年の日中国交正常化です。この年を境に横浜中華街の様相が一変しました。中国が上野動物園にパンダを貸し出し、日本人の間に中国ブームが巻き起こり、横浜中華街も注目されるようになります。 そして、バブル期以降に一般観光客がワーっと押し寄せるようになり、今日のように『横浜の観光地』として知られるようになりました」(呉さん)