「かつては普通の生活商店街だった」――横浜中華街165年の歴史を辿る
横浜の代表的な観光名所であり、国内外から連日多くの観光客が訪れる横浜中華街。エリアには600ともいわれるお店が軒を連ね、そのうち約170店舗が中華料理のレストランで、各店とも「味」を武器にしのぎを削り合っています。 【横浜中華街に中華料理店が出始めた時代の写真を見る】 また、食だけでなくエリアでは暦ごとにさまざまな中華様式の行事が行われこういった散策もまた、観光客にとっての魅力の一つ。日本全国を見渡せば長崎の長崎新地中華街、神戸の南京町といった複数の中華街が存在しますが、横浜中華街は特に中華文化を発信する強い影響力を持つエリアと言って良いでしょう。 他方、国内外に知られる横浜中華街ですが、その成り立ちや変遷について、細かく知る人はそう多くないようにも思います。今回は、この横浜中華街のストーリーと未来、そしてエリア内の料理店におけるリアルな思いについて、横浜中華街発展会協同組合理事で、中華街大通りに構える中華料理店「一楽」オーナーの呉政則さんに話を聞きました。
教養ある華僑の下働きをする「三把刀」によって少しずつ街が形成され始めた
今から165年前の幕末の1859年に横浜の港が開かれた頃、開港にともなって続々と世界各地の人が横浜に上陸すると、中国の広東・上海からも大勢の人たちがやってきます。 このうち特に広東人は、当時から海外交流が盛んで、各国の言語にも長けており、横浜にやってきた世界各地の人々と日本人との通訳者としての役割を果たしました。呉さんによれば、こういった「言語に長けた教養のある中国人(以下、華僑)の下働きをする人たちが、この地で『中華料理』の文化を広めた」と言います。 「開港当初、中国からやってきたのは広東・上海の沿岸部に近い人たちでしたが、その中心は比較的裕福で教養のある人たちでした。中国本国でも身分が高い人たちでしたので料理を作ったり、洋服を仕立てたり、理髪したりする下働きの使用人も一緒に横浜に連れてきました。こういった人たちの職業はいずれも包丁やハサミといった刃物を使うことから『三把刀(さんばとう)』と呼ばれました。 身分の高い華僑は、外国人居留地だった山手エリアで暮らし始めますが、下働きの三把刀の人たちは現在の横浜中華街エリアに暮らすようになりました。当時は『横浜新田』と呼ばれ、整備された土地ではなく、雨が降ればすぐにビチャビチャになるようなあまり良い場所ではありませんでしたが、後に少しずつ独自の街並みを形成していくようになりました」(呉さん)