【MotoGP】ビニャーレス、ヤマハ在籍時の苦悩を告白「彼らが僕の意見を取り入れてくれていたら、すでにチャンピオンになっていたはずだ」
マーベリック・ビニャーレスは、ヤマハが自らの主張に従ってマシンを開発していたら、MotoGPタイトルを獲得することができただろうと考えている旨を明かした。 レプソル・ホンダ、30年の歴史をフォトで振り返る|ギャラリー ビニャーレスはMotoGPの軽量・中量クラスで大活躍し、2015年にスズキから最高峰クラスに挑むことになった。このスズキで2年を過ごし、1勝を達成。2017年からはホルへ・ロレンソの後任としてヤマハに移籍することになった。 このヤマハでは加入初戦となるカタールGPで勝利し、続くアルゼンチンも優勝。これ以上ないスタート切った。その後第5戦フランスGPでも優勝したが、これがこのシーズン最後の勝利ということになった。 結局最終的には、チャンピオンに輝いたマルク・マルケス(ホンダ)、2位アンドレア・ドヴィツィオーゾ(ドゥカティ)に次ぐランキング3位でシーズンを終えることになった。 DAZNのスペイン版が制作したドキュメンタリー番組でビニャーレスは、自身はバイクに変更を加える必要はないと主張していたにも関わらず、ヤマハは開発を進め、別の方向性となってしまったことがあったと明かした。そしてその判断により、タイトル獲得のチャンスを逃したと、ビニャーレスは主張する。 「ヤマハに加入した時、僕はロケットみたいだった」 ビニャーレスはDAZNスペイン版の番組『マーベリック:ふたつの人生』の中でそう語った。 「僕は明確な考え、明確な目標をもってヤマハに入った。ヤマハに求めた唯一のことは、ワールドチャンピオンになるということだった」 「僕は他の何者にもなりたくはない。他の何者にもさせないでほしいと言ったんだ。僕はチャンピオンになりたいんだ。他のことに興味はないんだよ」 「バレンシアでのテストでヤマハのマシンに初めて乗った時、僕は恋に落ちたんだ。だから僕はヤマハに、このバイクをいじらないで欲しいと言ったんだ。僕が乗りたかったのは、ホルへが残していったバイクだった」 「その時僕は、『このバイクをカタール(開幕戦)に持ってきてくれ。これでチャンピオンになるつもりだ』と言ったんだ。でも開幕前のテストのためにセパンに行った時、『あのバイクはどこに行った?』と言ったんだよ」 「でも最初のレースで勝ったし、次のレースでも勝った。ル・マン(フランス)でも勝ったんだ。人生最高の日だったね。憧れのバレンティーノ・ロッシとの戦いに勝ったんだから」 「でもバルセロナで変化の波が押し寄せた。何も理解できなかった。僕はバイクをいじらないでって言ったのに……」 この時の開発の方針は、ヤマハで長年活躍していたロッシの好みに沿った方向性であったという話もある。しかしビニャーレスは、そうとは決して明言しなかった。 その後のビニャーレスはヤマハに留まったが、2021年シーズン中盤に決裂。ビニャーレスはアプリリアに移籍し、2024年のアメリカズGPで久々に勝利を掴んだ(2021年開幕戦カタールGP以来)。 ただビニャーレスは、そのアプリリアとの関係も終了させ、2025年シーズンにはテック3・KTMに加入することになった。しかも走らせるのは、KTMのファクトリーマシンだ。 なお2024年シーズンで、ドゥカティ勢以外で決勝レースを勝利したのは、ビニャーレスただひとりだった。ビニャーレスは今もチャンピオンに輝くことを目標としているが、ドゥカティのサテライトチームでは、その目標は達成できなかっただろうと考えていることを明かす。 「次に挑戦したいこと? それは僕にとってはチャンピオンを獲得することだ」 そうビニャーレスは明言する。 「今、僕はふたつの側面があるという結論に達した。挑戦者になるか、ダークサイドに行くか……つまりKTMに行くか、ドゥカティに行くかという2択だった」 「ドゥカティでは、勝つのはとても難しいと思った。ファクトリーチームにどう勝つのか? 非常に複雑で、バイクは同じでも武器は同じじゃないんだ。だから、僕には選択肢がひとつしかなかった。KTMに行って挑戦者になるしかなかった」 そしてビニャーレスは、これまで在籍してきた3メーカーについて、次のように表現した。 「スズキは純粋な情熱。ヤマハはビジネス。アプリリアはそのミックスだった」 「アプリリアはレースに生きるブランドであり、その点で僕に、バイクに対する情熱を少し取り戻してくれたんだ」
Rachit Thukral