『逃げ上手の若君』北条高時は本当に無能だった? 鎌倉幕府滅亡を招いた男の実像
美しい作画が話題のアニメ「逃げ上手の若君」。鎌倉時代末期、足利尊氏の謀叛によって鎌倉幕府が滅亡し、逃げ延びた北条得宗家の生き残り・北条時行が再興を目指す物語である。登場するキャラクターのほとんどが歴史上の人物であるため、史実を知ると、さらに物語の背景を深掘りできておもしろい。ここでは北条時行の父・高時、足方尊氏に名を与えた後醍醐天皇、そして後醍醐天皇の息子で尊氏に対抗した護良親王の3人に焦点を当てて解説しよう。 【写真】北条多可時腹切りやぐら 立て札には「霊処浄域につき立入禁止」と書かれている ※本稿は、『歴史街道』2024年9月号から一部抜粋・編集したものです。
北条高時(ほうじょうたかとき/1304~1333)幕府の弱体化を招いた最後の得宗
「頗る亡気の躰にて、将軍家の執権も叶い難かりけり(非常に無気力で、将軍の補佐役は務まらない)」 南北朝時代成立の歴史書『保暦間記』が伝える北条時行の父・高時の人物評である。 『太平記』においても、高時は田楽(歌舞や曲芸を融合した芸能)や闘犬に明け暮れ、政治を顧みない、無能で怠惰な人物として描かれている。鎌倉幕府の滅亡を招いた暗君といわれるゆえんである。実際、連署 (副執権)を務めた金沢貞顕の書状にも「田楽のほか、他事なく候」と記されており、高時が娯楽を好んだのは事実だろう。 その一方、貞顕の書状からは、病がちで、禅僧と語らうことを好む文人肌の人物像も垣間見える。病弱で内向的な資質が、高時を政治の世界から遠ざけたのかもしれない。 高時が父・貞時の急死により得宗の地位を継いだのは9歳の時である。14歳で執権となったが、実権は御内人(得宗家の家臣)の長崎高綱(円喜)・高資父子に握られていた。 また、当時の社会は、御家人の窮乏や悪党・海賊の跳梁、寒冷化による農業生産力の低下など困難な状況にあった。得宗家の衰退と社会状況が幕府の弱体化を促したのだ。なすすべもない高時は、病を理由に24歳で執権職を退き出家する。 その高時が勇気をふるい、得宗権力の再構築をめざした事件が「元徳の騒動」である。元徳3年(1331)、高時は側近の長崎高頼に高綱・高資の討伐を命じたが、計画が発覚。高頼らは逮捕され、高時も追及を受けたが、自分は関係ないと主張し責任を逃れた。高時の完敗である。この政変により、得宗の威信は地に落ちた。後醍醐天皇が挙兵したのは、これより半年後のことである。 正慶2年(元弘3、1333)5月、新田義貞に攻められ鎌倉が陥落した。敗北を悟った北条一門、長崎高綱を含む御内人は、ほとんど投降者を出すことなく葛西ケ谷の東勝寺に集まり高時とともに自害を遂げた。幕府滅亡の時にあたって、ようやく高時は得宗としての求心力を取り戻すことができたのである。