『逃げ上手の若君』北条高時は本当に無能だった? 鎌倉幕府滅亡を招いた男の実像
護良親王(もりよししんのう/1308~1335)尊氏に敗れ謀殺された悲劇の皇子
護良親王は楠木正成とともに、早い時期から父・後醍醐天皇の討幕運動を支えた功労者である。 出家して尊雲法親王と称し、嘉暦2年(1327)、20歳で天台座主となった。来るべき討幕挙兵の際、後醍醐が比叡山の軍事力を掌握するための布石であったといわれる。護良は延暦寺の大塔に住み大塔宮と呼ばれたが、修行や学問は一切せず、武芸の鍛錬に明け暮れたという。 元弘の乱が始まると後醍醐に呼応して比叡山で挙兵。後醍醐の配流後も、十津川・吉野・熊野などの山中に潜伏して各地の武士に討幕の令旨を発した。 また、野伏や土豪を組織し、楠木正成の千早城を包囲する鎌倉幕府軍の補給路を断つなど、ゲリラ工作を展開した。護良らの粘り強い活動が、足利尊氏ら有力御家人の挙兵を促す結果となったのである。 討幕の功労者となった護良が、対抗心を燃やしたのが尊氏であった。後醍醐の帰京後も信貴山に立てこもり、尊氏に幕府再興の野望があると訴えて排除を要求。再出家せよという後醍醐の命を拒み、征夷大将軍への任官を望んで許された。 栄光の絶頂を迎えた護良であったが、帰京後、急速に力を失う。後醍醐によって、討幕中に護良が発した令旨は無効とされ、将軍職も解任されたからだ。 そして、建武元年(1334)10月、参内したところを、後醍醐の命を受けた結城親光・名和長年らによって捕らえられ、鎌倉に送られるのである。 配流の理由は不明で、護良が帝位を狙っていると尊氏が讒言したとも、後醍醐が護良を利用して尊氏の排除を画策したものの、計画が失敗したため護良に罪をかぶせたともいわれる。『梅松論』には、護良が「武家(尊氏)より君(後醍醐)が恨めしい」と述べたと記されており、後者が真相に近いのかもしれない。 翌年、中先代の乱で北条時行の軍勢が鎌倉に迫る中、護良は足利直義の命を受けた淵辺義博に殺害される。この時、護良は突き出された刀を歯で嚙み折り、最期は脇差で首を搔き切られたが、死後も刀の切っ先は口の中にあり、両眼は生きているようだったと『太平記』は記している。
中丸満(歴史ライター)