『逃げ上手の若君』北条高時は本当に無能だった? 鎌倉幕府滅亡を招いた男の実像
後醍醐天皇(ごだいごてんのう/1288~1339)不屈の闘志で討幕を成し遂げた帝王
13世紀半ばから、天皇家は後深草上皇を祖とする持明院統と、その弟・亀山上皇を祖とする大覚寺統に分かれて皇位を争っていた。この状況に終止符を打つため、立ち上がったのが大覚寺統の後醍醐天皇である。 大覚寺統の嫡流は早世した後二条天皇の系統であり、弟の後醍醐は一代限りの中継ぎの天皇にすぎなかった。後醍醐が子孫に皇位を継がせるためには、持明院統と後二条流を退けねばならず、皇位継承に影響力をもつ幕府を倒す必要があったのだ。 後醍醐は不屈の闘志で討幕を推進していく。その執念はすさまじく、最初の討幕計画(正中の変)が失敗した後も、4年にわたって、自ら密教の法衣を着て護摩を焚き、幕府調伏の祈禱を行なったという。 元弘の乱もいったんは失敗し隠岐に流されるが、間もなく配所を脱出。足利尊氏らに決起を呼びかけて討幕を実現するのである。 京に凱旋した後醍醐は、「朕の新儀は未来の先例たるべし」という決意のもと、建武の新政を推進した。しかし、先例や家格を無視した大胆な政策や人事は「物狂の沙汰」と呼ばれ、恩賞にもれた武士はおろか、公家の間にも不満が高まっていった。 尊氏についても、記録所や雑訴決断所などの重要機関に名前がないこと、公家の間で「尊氏なし」と噂されたという『梅松論』の記述により、政権から疎外されていたと従来考えられてきた。 しかし、後醍醐は尊氏に内昇殿を許し、武家の名誉である鎮守府将軍に任官させ、自身の実名である尊治の一字を与えて、高氏から尊氏に改名させている。討幕の功労者として十分に遇していた。 だが、唯一無二の帝王を自認する後醍醐と、武家の第一人者である尊氏の両雄が並び立つことはなかった。 中先代の乱の後、尊氏が後醍醐の上洛命令を拒んだため関係は決裂。やがて、尊氏が持明院統を奉じて北朝を擁立すると、後醍醐は吉野へ下り、3年後、病により52歳の生涯を終える。 『太平記』によると、臨終の間際、後醍醐は「玉骨は南山(吉野)の苔に埋もれるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」と述べたという。不屈の闘志は、死の間際まで衰えることはなかったのである。