歴史を動かした「東国の軍団」
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人類が戦争を始めたのは農業を選択したことがきっかけだったのだそうだ(コリン・タッジ著『農業は人類の原罪である』新潮社刊)。農業は余剰を生みだし人口爆発を誘発し、民は新たな土地を求めて隣人と争い始めたのだ。人びとは強い指導者と他者を攻撃するための大義名分=「正義」を求めたが、いまだに、世界中が自国に都合の良い「正義」を主張しあっているのだから、当分、人類は戦争から解放されないだろう。それぞれに正義があるのだとすれば、敗れた者の歴史が正当に伝わっているとは限らない。今回は「東国の軍団」にスポットを当てたい。 天武13年(684)閏4月5日、天武天皇は「凡そ政要は、軍事なり」と唱えた。武力の拡充は、差し迫った課題だった。 直前まで、世は騒然としていた。天武(大海人皇子)の兄・中大兄皇子(天智)は古代最大の対外戦・白村江の戦い(663)に敗れ、日本は滅亡の危機に瀕していた。ようやく立ち直ったものの、わずか9年後に、壬申の乱(672)が勃発した。古代最大の内乱を制し即位した天武天皇は、律令整備を急ぎ、大鉈を振るった。急進的な改革事業に反発する者も現れたのだろう。天武は強権を発動し、軍備を整えた。そしてなぜか天武は、「東国の軍事力」を重視した。その理由を知るために、時代を少し溯ろう。 稲作をはじめた弥生時代は、混乱の時代だった。2世紀には中国の史料に「倭国大乱」と記録されるような状態に陥った。ところが3世紀に、ヤマトの纏向(まきむく、桜井市)に巨大都市が出現し、その後ヤマトが建国されると、争乱は収拾された。各地の首長がゆるやかな連合を組むことによって、平和な時代が到来したと考えられている。 ではこの時、大王(天皇)やヤマト政権(朝廷)の軍隊は誕生していたのだろうか。 長い間大王は祭司王で、強大な権力をもたず、大王の軍隊は存在しなかった。ヤマト政権は5世紀に朝鮮半島に出兵し、南下政策をとる高句麗と対峙するが、この段階になっても、諸豪族の私兵に頼っていた。だから、5世紀後半になると、中央集権国家の建設が急がれるようになったのだ。そしてその過程で、朝廷が注目したのが東国だった。まずは大王家の直轄領(屯倉=みやけ)を設け、もとは有力な豪族だった国造(くにのみやつこ)は子弟を都に差し出した。これが舎人(とねり)と呼ばれる人びとで、王家の身辺に近侍し護衛にあたった。 そして朝鮮半島への出兵が増えると、やはり東国の軍団が狩り出されるようになった。また物部氏は、いち早く馬の重要性に気づき、配下の渡来人を信濃に移住させ、馬の飼育を行なった。「長野」の地名は、河内の渡来系豪族・長野氏に由来する。ここに、東国の騎馬軍団の原型が誕生したのだ。さらに7世紀の蘇我系政権は東国の蝦夷(えみし)を都に招いては、饗応し懐柔した。蘇我氏も、身辺警護に東方儐従者(あずまのしとべ)を用いた。 このようにヤマト政権と東国の関係は、建国直後から始まっていた。ヤマト政権が送り込んだ移民は先住の民と融合し、それまで手のつけられなかった土地を開墾した。これが功を奏し、東国は豊かになった。だから、東国の民はヤマトの政権に従順だった。また、実質的に政権を運営していた物部氏や蘇我氏も、東国との結びつきを強め、さらに蘇我系の大海人皇子(天武)は、東国の軍事力を借りて、玉座を奪い取った。東国の軍団は、政権の行方を左右するほどのパワーを持ち始めていたのである。 注目すべきは、蘇我氏や物部氏ら旧豪族層を潰して8世紀に権力を握った藤原政権が、極端に東国を恐れたことだ。連載中述べたように、藤原氏は旧敵とつながっていた東国の軍団を蝦夷征討にさし向けることによって、東国の弱体化を狙った (2010年3月号「戦場はあの『胆沢ダム』周辺 藤原氏がでっち上げた『蝦夷征討』」 参照)。藤原氏の策は的中するが、東国の民は藤原政権を恨んだ。 東北蝦夷征討が終わり東国の軍団は解体され、俘囚(ふしゅう、恭順した蝦夷)が各地に移住させられると、東国は無法地帯となっていく。9世紀後半の東国は、俘囚や土着の群党が暴れ回り、手がつけられなくなった。ところが、ここに平氏や源氏が乗り込んだ瞬間、「群盗」たちはおとなしくなってしまった。その理由はおそらく次にような事情による。 平安時代、多くの皇族が「平」や「源」の姓を下賜され臣籍降下したが、それは「皇族が増えすぎた」からだけではなかった。藤原氏が、「皇族をなるべく都から遠ざけたい」と願ったからだ。天皇と皇族の女子の間に産まれた子が増えれば、「藤原腹の天皇」が減る危険があった。そこで源氏や平氏を、東国の無法地帯に送り込んだのだろう。藤原氏は雅で平和な生活を送る一方で、汗まみれ、泥まみれ、血まみれになって必死に働く武士たちをあざ笑い、穢らわしいと、蔑視していく。だから、藤原氏への反発という点において、関東に向かった貴種と群盗たちは一致していたのではないだろうか。 のちに、平氏や源氏が辺境軍事貴族となって力を蓄え、藤原貴族社会を破壊することに成功するのは、都合のいい軍事力として利用されてきた東国の民の恨みが、根底に隠されていたからである。
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関裕二