スポーツプラスα センバツに挑む長崎日大 指導者へ、覚悟と転身 山内徹也部長(39) /福岡
◇「褒めて、怒って、選手を伸ばす」 営業マンから教壇へ「腹をくくった」 第94回選抜高校野球大会に長崎日大が出場する。センバツは23年ぶりの出場で、日大三島(静岡)の38年ぶりに次ぐ今大会2番目に長いブランクだ。復活に向けて、チームを変えた一人が、昨春に就任したOBの山内徹也部長(39)。社会人野球でプレーし、現役引退後は営業マンだったが脱サラし、今は教壇に立つ。根幹には野球への「熱い思い」がある。 センバツ出場が決まった翌1月29日。長崎県諫早市のグラウンドは熱気を帯びていた。日が沈み、練習の締めは「きついなんてものじゃない」と選手たちが悲鳴をあげる走り込み。ストップウオッチを片手に「まだまだ」と発破をかけるのが山内部長だ。「高校生の時間は2年半しかない。褒めて、怒って、伸ばしてあげたい」。試行錯誤しながら教える日々だが、選手と全力で向き合う姿勢の原点は、紆余(うよ)曲折の半生にある。 長崎日大の選手時代に捕手として春夏計4回、甲子園の土を踏んだ。青学大を経て、2005年に社会人の強豪・東京ガスに入社。都市対抗野球は補強選手も含めて4回出場した。しかし、11年に「来季は選手としての起用を考えていない」と戦力外通告を受けた。29歳で突然、現役引退が決まった。 チームを離れ、役所などでガスのPRをする支店業務に就いた。だが、頭から野球が離れることはなかった。「指導者になりたい」。漠然とした思いを兄・浩史さん(42)に電話で伝えた。「指導者として選んでもらえるかどうかは、他人が決めること。でも、選んでもらった時に『できません』とならないように」。野球を始めるきっかけにもなった兄の返答に、はっとした。 東京ガスの指導者として会社に残る道もあった。だが、「社会人のコーチは3、4年で、どこかで終わる。長く携わる道を探したかった」と高校野球にこだわった。指導実績がなく、「それならば教員免許を取った方がいい」と日大通信教育部に入った。営業の仕事に加え、13年夏からは東京ガスのコーチに就任。忙しさは増したが、1時間半の通勤電車の中でテキストを読み込み、有給休暇を使って大学に通った。3年かけて地歴公民科の教員免許を取得した。 16年、知人の紹介で鎮西学院(長崎)の教員に採用され、野球部にも携わった。赴任する数日前まで、東京ガスのコーチとして大会に同行し、手渡された教科書を見ても「何をどう教えたらいいのか分からなかった」。初めての授業は、既存の穴埋めプリントを配布するしかできず「当時の生徒には申し訳ない」という思いは今も消えない。それでも、信頼される「先生」と「指導者」になろうと歩み始めた。 21年春、再び転機が訪れた。平山清一郎監督(42)から「長崎日大の部長に」と声がかかった。母校は過去に春夏計11回の甲子園出場を誇るが、10年夏を最後に途切れていた。「OBだからこそ早く良い姿を見せたいという思いもあるし、苦しい思いをしてきたOBの気持ちも分かる」と平山監督。OBコンビの結成に再起をかけた。 「まさか声がかかるとは思わなかった」。それでも、苦労人の山内部長が放つ熱意は母校を変えた。練習中から誰よりも声を出し、打撃練習では選手の横でアドバイスを送った。 選手たちが大きく刺激を受けたのは一球の大切さだ。「一球一球や勝ちに対する執念がすごい。一方で、数をこなし、がむしゃらにやるのが正解ではなく、考え、意識を持つことが成長につながると教わった。この代が勝てたのは山内先生の影響が大きい」と主将の河村恵太(3年)。選手の意識が変わり、昨秋の九州大会は2試合連続で逆転勝ちして4強入り。粘り強いチームに成長し、23年ぶりのセンバツ切符をつかんだ。 就任1年目で甲子園に戻る山内部長。ただ、主役が自身でないことは知っている。「僕がどうとかではなく、選手がしっかりと戦えるようにサポートし、鍛えるだけ。甲子園で校歌を歌えるように」。クビを宣告され、「腹をくくった」覚悟と転身は、大舞台で輝く選手を見た時に報われる。【丹下友紀子、長岡健太郎】