電動ハイパーカー「バティスタ」と「B95」が上陸 再起をかけるピニンファリーナの第2章
1959年には年間4000台以上を生産
自動車をはじめとするさまざまなプロダクトをデザイン、そして製作してきたイタリアのカロッツェリア、ピニンファリーナ。その名を知らない者は、とりわけ自動車ファンのなかでは皆無といっていいのではないだろうか。 【写真】最高出力1903PSを誇るピニンファリーナの電動ハイパーカー、バティスタ チンクアンタチンクエとB95を写真で詳しく見る(85枚) 創業者のバティスタ・ピニン・ファリーナが(ピニンは彼の愛称だった)、その兄が経営していたスタビリメンティ・ファリーナ社から独立し、新たにピニン・ファリーナ社を設立したのは1930年5月23日。したがって来年の2025年に、同社は設立95周年という記念すべき節目を迎えることになる。もちろん現在までの彼らの歴史は、順風満帆なものばかりではなかった。1939年には第2次世界大戦によって工場は全壊。同社の操業は一時完全に中止されているし、そこからの復興にも数年の時間を要した。 ピニン・ファリーナでは、ここからチシタリアやナッシュ、あるいはキャデラックのボディー製作に携わるが、彼らの運命を大きく変えたのは、やはり1950年代を迎えてからのフェラーリ、あるいはアルファ・ロメオとの生産提携だろう。1950年代半ばにはトリノ郊外のグルリアスコに新工場を建設するための土地を購入。その新工場にはアルファ・ロメオのスパイダーを毎日20台ずつ生産できるキャパシティーがあった。そして同工場が通年でフル稼働した1959年には、実に4000台以上のモデルが出荷されるまでに至ったのだ。 この新工場建設に前後して、バティスタ・ピニン・ファリーナは、自身の息子であるセルジオと義理の息子であるレンツォ・カルリを後継者として育て始めた。そして1961年、バティスタは正式に会社を後進に譲り、同時にイタリア大統領はファリーナの姓をピニンファリーナに変更することを承認。「ピニン・ファリーナ」の社名は、ここで「ピニンファリーナ」へと改められることになった。
2015年にマヒンドラ傘下に
1960年代からのピニンファリーナは、デザインはもとより技術革新においてもさまざまな話題を提供してくれた。1966年にはフルサイズの風洞実験装置の導入計画が立ち上がり、それは1972年に完成。多くの自動車メーカーが、同施設を用いて自動車のエアロダイナミクスを飛躍的に進化させた。1980年代もピニンファリーナの拡大期は続き、カンビアーノに新たな研究開発施設を開設。エンジニアリング業務の可視化と独立性を大きく高めた。 だが2000年代に差しかかるころ、自動車メーカー自身による新型車のデザイン開発が一般的になると、いわゆるカロッツェリアの仕事は激減した。ピニンファリーナは自動車以外の業界でも積極的にデザイン活動を続けるが、それでも2007年末には3年連続の深刻な赤字に陥った。 そして2015年、現在のオーナーであるインドの自動車会社マヒンドラ&マヒンドラのオーナーであるマヒンドラグループによる買収に合意し、新たな体制で再スタートを切ることになったのである。 先日ジャパンプレミアが行われた「バティスタ チンクアンタチンクエ」と「B95」は、いずれも現在のピニンファリーナグループにおいて中核を担う、イタリアはカンビアーノに本社を置くアウトモビリ・ピニンファリーナ社によって生産・販売されるモデル。それはまさにピニンファリーナ完全復活の証明と評してもよいだろう。 まずはピニンファリーナ社(当時はピニン・ファリーナ社だった)の創業者である、バティスタの名を堂々と掲げたアウトモビリ・ピニンファリーナ社の復帰第1作ともいえるバティスタから解説を始めよう。バティスタがワールドプレミアされたのは、2019年3月のジュネーブモーターショーでのこと。社内コードで「PF0」と呼ばれていたこのモデルは、エッジの効いた斬新なフォルムが物語るように、最新の電動スポーツカーとして企画・設計されたものだ。 デザインはピニンファリーナのルカ・ボルゴーニョを中心とするチームで行われ、そのシルエットは、圧倒的なパフォーマンスを想起させる。コンセプトカーの誕生から5年を経過しているにもかかわらず、低くワイドなボディーや抑揚の強いウエストラインの採用などによって、現在においても古さをまったく感じさせない。これもまた、ピニンファリーナのテクニックである。