命じておいて信号文も知らない…「無能な司令部」が語った「ミッドウェー海戦」大敗北の「責任逃れな言い訳」
鹿屋基地に軟禁
吉野は「萩風」から戦艦「長門」に移され、志布志湾に帰投すると敗戦の事実を隠蔽するため、そのまま鹿屋基地に軟禁された。居住用の兵舎一棟があてがわれたが、ほかの隊員との接触は禁じられ、まさに敗残兵の扱いである。約2週間後、吉野機の3人の搭乗員は揃って空母「翔鶴」に転勤を命ぜられた。昭和17年10月26日、ふたたび日米機動部隊が激突した南太平洋海戦にも、吉野は索敵機の機長として参加している。 さらに2年後、戦況が日本にとって決定的に不利となった昭和19(1944)年10月25日、フィリピン近海で日米が激戦を繰り広げた「比島沖海戦」では、艦上攻撃機「天山」に搭乗、いわゆる「小澤囮艦隊」の旗艦「瑞鶴」から索敵に発進、「瑞鶴」が敵艦上機の波状攻撃を受け撃沈されたために、フィリピンの陸上基地に着陸。そこからレイテ湾内の敵輸送船団攻撃や米軍が橋頭保を築いたタクロバンの夜間爆撃などで出撃を重ねた。 「11月4日午前零時、クラーク基地を単機で出発し、タクロバンの敵飛行場を爆撃しました。攻撃を終えてレイテ湾内を上昇中、探照灯に捕捉され、同時に高角砲弾が周囲で炸裂し、機体が振動して火薬の臭いが座席に入ってきました。正確な射撃です。これは電探射撃だと直感して、とっさに、用意していた電探紙(金属を貼りつけたテープ)を撒くよう、後席の電信員に指示しました。これが功を奏して、たちまち高角砲弾は後方に遠ざかりました」 吉野はこの頃、同乗する若い搭乗員たちに、「俺は不死身だ。俺と一緒にいる限りはお前たちも不死身だ。絶対に死ぬことはない」と暗示をかけ、安心感を与えて、いざというときに実力が発揮できるよう、部下の心を掌握することを心がけていた。長い実戦経験に裏付けられているからこそ、その言葉には説得力があった。 その後も吉野はフィリピンで戦い続け、昭和20(1945)年2月、木更津基地に復帰。本州沖に出没する敵機動部隊の索敵任務に就きつつ少尉で終戦を迎えた。10月30日、日の丸を米軍の星のマークに塗り替えられた日本海軍の偵察機「彩雲」を木更津から横須賀に空輸して、吉野の搭乗員生活は終わりを告げた。 ミッドウェー海戦で敵艦隊を発見する殊勲をたてながら司令部の失態を糊塗するためのスケープゴートにされた吉野の同期生・甘利洋司一飛曹はその後の戦いを生き抜き、終戦3ヵ月前の昭和20年5月13日、「芙蓉部隊」の一員として佐多岬南方海域に黎明索敵攻撃に出撃、敵機動部隊発見を報告したのち未帰還となり、戦死が認定された(戦死時少尉)。甘利は索敵機として、生涯二度にわたって敵機動部隊を発見したことになる。 吉野は戦後、関東配電(のちの東京電力)に入社、空港反対闘争がもっとも盛んな頃の成田営業所長などを歴任、昭和52(1977)年の定年まで勤めた。平成11(1999)年、アメリカの深海調査会社ノースティコスがミッドウェー島東方の海底で、ソナー画像から「加賀」の残骸を発見したさい、吉野は調査への協力要請を受け、同じく九七式艦上攻撃機搭乗員だった赤松勇二とともに探査船に同乗した。 「波が高く、船は大きく揺れました。ミッドウェー島沖とは言っても、周囲は全部海ですから、昔ここで戦ったという感慨はなかった。心のなかでは、『加賀』が見世物になるのはしのびない、見つからないで欲しいという気持ちもありました……」 平成23(2011)年死去、享年91。吉野が亡くなって8年後の令和元(2019)10月、米IT大手マイクロソフト共同創業者のポール・アレン(2018年死去)が設立した財団の調査チームが、海底に眠る「加賀」「赤城」の艦体を相次いで発見、映像が公開された。「加賀」の映像には、吉野が発射の轟音を聞いたという舷側後方に設けられた特徴的な20センチ砲がはっきりと映し出されていた。吉野がもし存命だったなら、海底の「加賀」を見て何を思っただろうか。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)