命じておいて信号文も知らない…「無能な司令部」が語った「ミッドウェー海戦」大敗北の「責任逃れな言い訳」
司令部がボンクラ
「冗談じゃない、『らしきもの』という表現は、暗号書に正式に記載されている信号文ですよ。確認しているうちに撃墜されたら元も子もないので、敵らしきものを発見したらまずそう通報するように、偵察員は教育されている。『まず第一報を入れよ、その解釈は司令部が考える』というのが、洋上索敵の大前提なんです」 と、憤りをあらわにしたのは、このとき、空母「加賀」から発進した索敵機、九七艦攻の機長で偵察員(3人乗りの真ん中の席)だった吉野治男(当時・一飛曹、のち少尉)である。吉野は昭和13(1938)年、海軍に入隊した甲種予科練二期の出身で、「利根」四号機の甘利一飛曹とは同期生である。 雷撃(魚雷攻撃)隊の一員として真珠湾攻撃に参加して以来、多くの実戦の場数を踏んできた吉野は、その実力を認められ、索敵のエキスパートとしての専門訓練を受けてミッドウェー海戦に臨んだ。 「フロートのついた低速の甘利の水上偵察機が、敵戦闘機や防御砲火を避けつつ、ここまで触接を続けられたのは大変な努力の賜物です。よく戦争映画で、索敵機が高い高度から雲越しに敵艦隊を発見したように描かれていますが、そんなことはありません。高高度からだと敵に発見されやすく、逆に天候に左右されて敵艦を見つけにくい。もし自分の索敵コースに敵艦がいなくても、『そのコース上に敵はいない』ということが重要な情報になるので、一瞬たりとも気が抜けないんです。 索敵機の飛行高度は300~600メートルが通例で、私のこの日の飛行高度は600メートルでした。低空を飛んで、水平線上に敵艦を発見したらその瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。 敵に遭えば、墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよ、と私たちは教えられていました。たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送。『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち墜とされてもお前は『殊勲甲』だと言うんですよ。甘利機が1時間以上も触接を続けられたのは、私らはほんとうにすごいことだと思う。『らしきもの』の報告で判断が遅れたなんて、そりゃあ、命じておいて信号文も知らない司令部がボンクラなんです」 甘利機が予定コースを大幅に外れていたことについては、吉野と同じく、予科練同期生の小西磐(少尉)が戦後、当時の資料をもとに精密な類推を試みている。これは甘利一飛曹の航法ミスではなく、日米の記録を照合すると、このとき、「利根」航海士が天測で導き出して、搭乗員に伝えた出発位置そのものに誤りがあり、実際の出発点から索敵線を引けば、甘利機のコースとピタリ一致するという。 甘利機の話題に隠れて見落とされているのが、甘利機の北隣り、五番索敵線を飛んだ「筑摩」一号機(機長・都間(つま)信大尉)の失態である。同機は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を通過しながら、雲の上を飛行していて発見できず、しかも敵艦上爆撃機と遭遇しながら報告もせず、索敵機としての任務をいわば放棄していたのである。 吉野は、 「雲の上を飛んで索敵機の任務が果たせるはずがない。雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて信じられないことで、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後自衛隊に入り、そのことをしゃあしゃあと人に語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」 と容赦ない。甘利機に続いて敵艦隊との触接に成功した「利根」三号機(九五式水偵)、「筑摩」五号機(零式水偵)は、ともに未帰還となっているだけに、都間大尉のとった行動は、悪く言えば、海軍刑法で重罪に値する「敵前逃亡」ととられても仕方のないものだった。 もちろん、「利根」四号機にせよ、「筑摩」一号機にせよ、これだけの大海戦での歴史的敗北の責任を一索敵機に負わせるのは酷である。だが、ひとり「利根」四号機だけが悪く言われることに対し、現場の搭乗員の側から強い異議が出されていたことは記憶にとどめておきたい。