日本鉄道史で最大の被害220人以上が死亡した事故 80年前の沖縄で起きた悲劇は旧日本軍が箝口令「国軍創設以来初めての不祥事」
「国軍創設以来初めての不祥事」「戦力が半減した」
資料『神里が語る沖縄戦』によると、軽便鉄道の沿線には戦闘に備え、さとうきび畑の中などに弾薬が保管されていて、火の海に包まれた現場からは夜通し爆発音が鳴り響いていたと記述されている。 大城吉永さん: ガジュマルには人の肉とか、包帯、ガーゼ、これがいっぱいぶら下がっていた。事故現場から100メートルくらいしかないから、風圧で全部吹っ飛ばされた 神里集落の住民は、近くの山に避難したため幸いにも人命の被害はなかった。事故があった夕方には憲兵が現場に訪れたと大城さんは話す。 大城吉永さん: その日の夕方からはサイドカーに乗って憲兵がいっぱい来ました。この事故のことを一切人に喋ってはいかんよと。そういう達しが区長さんを通してあった。僕らはもう何にも話せやしない 『沖縄県史』によると、事故の3日後に記された日本軍第62師団・石部隊の報告書には、「10・10空襲とは比較にならない甚大な被害」「国軍創設以来初めての不祥事」さらに、「戦力が半減したと言っても過言ではない」と捉えていたことが記されている。 事故の原因は、軍の規定に反して屋根のない貨車に弾薬やガソリンを積んでいたことで、機関車の煙突から出た火の粉が降りかかり引火したことによるものだとみられている。 平和だった島に軍靴の足音が響き、軍備増強、要塞化が進む中で起きた悲劇だった。 大城吉永さんは、「戦争が始まったというのは、実感としてみんなあったのだろう。本当はこの辺りに慰霊碑を建てたいと思うんだけれども」と振り返る 悲劇から80年、軽便鉄道の爆発事故は、当時を知る人たちにとって封印することができない「戦争における一つの記憶」として刻まれている。 (沖縄テレビ)