日本鉄道史で最大の被害220人以上が死亡した事故 80年前の沖縄で起きた悲劇は旧日本軍が箝口令「国軍創設以来初めての不祥事」
戦前、沖縄県内を走っていた軽便鉄道。 沖縄に戦争の足音が近付くとともに軍事輸送に利用され、80年前の12月11日、輸送中の弾薬などが爆発し220人以上の犠牲を出した事故が発生した。 【画像】戦前、沖縄を走っていた軽便鉄道 事故は、旧日本軍によって口外してはならないと箝口令(かんこうれい)が出され、公にされることは無かった。事故はなぜ起きたのか? 目撃した男性と旧日本軍の報告書などから、日本鉄道史で最大の被害といわれる「軽便鉄道爆発事故」を振り返る。
那覇バスターミナル近くに残る遺構
沖縄県那覇市のバスターミナルのすぐ側に残る転車台は、戦前に沖縄に鉄道が走っていたことを物語る貴重な遺構だ。 那覇を起点に、北は嘉手納、南には与那原、糸満と3つの路線があった軽便鉄道は、県民生活の足として根付き親しまれていたが、戦況の悪化に伴い、沖縄戦が始まる前年の1944年7月からは、軍事物資などを運ぶ役目へと姿を変えていった。 人々の生活に戦争の影が忍び寄るなか、1944年12月11日、日本の鉄道史上で最大の被害といわれる220人あまりの死者を出した事故が起きた。
事故を目の当たりにした少年と生存者の女学生
本島南部へ運ぶ大量の弾薬や兵器、ガソリン、医薬品などを積み、その上に兵士を乗せ、嘉手納から糸満方面へ向かっていた軽便鉄道は、現在の南城市大里(当時:大里村)に差し掛かったとき、突然大爆発を起こした。 当時8歳だった大城吉永さんは、悲惨な状況を目の当たりにしていた。 事故現場に近い南風原町神里集落(当時:南風原村)には、大きな爆発音の後、まもなく爆風と振動が襲ったと大城さんは鮮明に記憶している。 大城吉永さん: 黒い煙が上がってきたから、これは大変だと。生き残った女学生がいて。糸数さんっていうんだけど、この溝に落ちたために助かったんです。自ら起きてみたら、人一人もいなかった全部吹っ飛んでしまって 生存者の一人、女学校からの帰宅で軽便鉄道に乗っていた糸数禧子さんは、事故の直前に列車の異変に気付いていたと話す。 糸数禧子さん(2015年取材時86歳): 火の粉がガソリンについた。ボォーッと火が見えた。列車の屋根の上の兵隊が飛び降りたので、兵隊が飛び降りるから大変だなと思って 危険を感じた糸数さんがとっさに列車から飛び降りた直後、引火したガソリンとともに大量の弾薬が一斉に爆発した。乗っていた兵士210人前後、女学生8人、乗務員3人が巻き込まれる大惨事となった。 事故を目撃した大城さんは、「事故現場だった近くの畑からは、戦後人骨がいっぱい出ていた」と話す。 また、大城さんは「軽便鉄道だけじゃなくて、線路の周辺にはかなりの弾薬があった」「この辺はほとんど弾薬があった」と証言する。