「袴田事件」ってどんな事件? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
2014年3月27日、いわゆる「袴田事件」の第2次再審請求について、静岡地裁が裁判のやり直しを認めました。事件の概要や再審(裁判のやり直し)請求に至った過程などを振り返ってみます。
どんな事件だったのか?
「袴田事件」とは1966年6月に発生した、静岡県清水市(当時)のみそ製造会社専務およびその家族計4人が全焼した家屋から遺体で発見された事件です。4人すべてに多くの刺し傷あとが認められ、県警察本部は8月、社員の袴田巌容疑者(当時30歳)を強盗殺人および放火などで逮捕しました。9月に静岡地方検察庁が静岡地方裁判所(1審)へ起訴(裁判を起こす)し、68年9月、死刑判決を下しました。初公判から起訴事実を全面否認していた袴田被告は東京高等裁判所への控訴、最高裁への上告を行うも、76年5月に控訴が、80年11月に上告がそれぞれ棄却(請求を受け付けない)し、死刑判決が確定しました。 ところが裁判は地裁段階から異例の展開をみせ、袴田被告は冤罪(ぬれぎぬ)ではないかという声も多々上がり、確定後も裁判のやり直しを求めて今日に至ったわけです。 なお本稿では袴田死刑囚の呼称を逮捕から起訴までは「容疑者」を、起訴後から判決確定判決まで「被告」を、以後を「死刑囚」とします。いずれも袴田巌という同一人物を指しているのでご了承下さい。
死刑確定までの裁判の争点
(1)自白の任意性がなかった 袴田容疑者は警察・検察の取り調べ段階でいったん殺人など容疑を認め、自白しました。ところが前述の通り公開の裁判では最初から無罪を訴えます。捜査で取られた自白調書45通のうち1審は44通を取り調べそのものが違法だったと断じて証拠として採用しませんでした。それは確定判決まで維持されます。その理由を1審判決は「強制的、威圧的な影響を与えており任意性がない」「極めて長時間にわたり」「取り調べ、自白を得ることに汲々として、物的証拠に関する捜査を怠った」と非難しています。 実際、取り調べ時間は約20日にわたり連日10~12時間もなされました。日本国憲法は「強制、拷問、脅迫による自白は証拠にできない」「自白だけでは有罪判決を出せない」としています。この規定があるのを裏返せば自白こそ有力な証拠という思い込みが捜査機関に強いからでしょう。当時はまだ「自白は証拠の女王」との観念が根強かったとみられます。いや、残念ながら今でもないとはいえません。 例えば「彼があやしい」という報道のきっかけとなった袴田容疑者の部屋から出てきたとされる「血の付いたパジャマ」。実際に逮捕の大きな決め手となっており、却下された自白調書にも犯行時に着ていて「油が付くと困る」から雨がっぱを着ていた云々とあります。確定判決では着ていたのはパジャマではないと断じました。単に強要しただけでなく内容まで変造されていた可能性もあるのです。 自白の任意性を奪った点は明らかな捜査当局のミスで争う余地はありません。