細貝萌がプロ入り時から決めていたキャリアの最後「群馬でプレーしたい、という夢が失われたことは一度もなかった」
もちろん、世代別代表での活動と並行して、高校2年生の時に浦和のキャンプに参加したり、その後に特別指定選手として練習やサテライトリーグに出場した経験も、プロへの思いを強くした出来事だ。間近で見た浦和の選手たちのプレーも、ロッカールーム等で耳にする会話も、すべてが刺激でしかなく、そこで感じた自分との大きな差が2005年、浦和でプロキャリアをスタートする選択につながった。 「ありがたいことに、プロになるにあたって、いろんなJクラブから声をかけていただきましたが、最終的には、2004年の1stステージの上位3チーム、レッズ、ジュビロ磐田、横浜F・マリノスに絞りました。最終的にレッズを選んだのは練習参加を通して、鈴木啓太さん、長谷部誠さん、坪井慶介さん、田中マルクス闘莉王さんをはじめとする、すばらしい選手たちと自分とのとんでもない差を感じたから。 正直、周りは『これから世代交代が起きそうなチームに行ったほうが試合に出られるんじゃないか』という意見がほとんどでしたけど、僕自身は彼らと毎日練習できることに価値を見出していました。試合は毎週1試合、フルで出場できたとしても90分だけど、練習は毎日1時間強ありますからね。日本を代表する選手たちと毎日、ボールを蹴る時間はとんでもない経験値になると考えていました。あとは、レッズサポーター。彼らの声援を受けてプレーしたかった」 ハイレベルの選手に揉まれながら、カップ戦等で試合経験を積み上げていた細貝が、コンスタントに公式戦に絡めるようになったのは4年目、2008年以降だ。それまでは、監督の意向でセンターバックやサイドバック、ウイングバックなどでプレーすることが多かったが、2008年は本職であるボランチに定着。以降は、ケガ人などのチーム事情で他のポジションを預かることはあっても、基本的にはボランチを定位置に存在感を際立たせていく。その過程において、2008年に戦った北京五輪での3戦全敗という屈辱は将来を改めて考える転機になった。 「今になって振り返っても、当時のU-23日本代表には、本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司、香川真司、内田篤人、西川周作ら、いい選手がそろっていたんです。でも、まったく勝てなかった。あの時、世界との差を突きつけられたことで、海外に出て少しでもレベルアップしなくちゃいけないという気持ちにさせられました。 ただ、当時は今と違って、日本代表で活躍した選手が海外へ、という時代だったので。僕のなかにも日本代表にならなければヨーロッパに行くべきじゃないという考えがあったので、レッズで活躍して日本代表に選ばれてから海外へ、と思っていました」 その言葉が現実になったのは、北京五輪から2年後の2010年8月だ。浦和の主軸として活躍を続けていた細貝は、同年のワールドカップ南アフリカ大会後に再始動した日本代表に初選出。9月4日の国際親善試合、パラグアイ戦で国際Aマッチデビューを果たしたのを機に、コンスタントに日本代表に名を連ねるようになる。海を渡る決断をしたのは、その年の12月だ。ブンデスリーガのレバークーゼンへの完全移籍とともに、アウクスブルクへの1年間の期限付き移籍が発表された。