【六田知弘の古仏巡礼】女人高野と呼ばれ、あまたの女性の苦楽を受け止めてきた室生寺。釈迦如来は悠然と慈愛に満ちた笑みを浮かべる(国宝)
六田 知弘 / 村松 哲文
室生寺金堂に安置された国宝の釈迦如来像。絵の具で描かれた鮮やかな光背をバックに立つ量感豊かな姿は、参拝者を安らぎの世界へと導く。
安らかな表情に、まばたきするのも忘れてしまいそうになる。 室生寺(奈良県宇陀市)金堂の「中尊 釈迦如来立像」だ。深山幽谷の地に立つ同寺の門前には「女人高野(にょにんこうや)室生寺」と刻まれた石碑が立っている。真言宗の総本山・高野山が女人禁制なのに対して、鎌倉時代から女性にも門戸を開いてきたからだ。現代でも参拝客の8割を女性が占める。 室生寺は681(天武10)年、飛鳥時代に修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝えられる。奈良時代末期に山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒のため、この地で高僧らが祈願。その効験があらたかだったので、興福寺の高僧・賢璟(けんけい)が勅命を受け、弟子の修円が伽藍(がらん)を造営した。そのため、当初は法相宗・興福寺の末寺だった。 平安時代になって修円と親交が深かった空海の弟子・真泰(しんたい)が入山。真言密教の法儀を行う「灌頂堂(かんじょうどう、現在は本堂)」や空海を祭る「御影堂」なども整備されていく。江戸時代になると山岳修行の道場として発展を遂げ、密教色を強めていき真言宗の寺院となった。 薄い衣をまとい、穏やかな表情でたたずむ本像は、榧(かや)の一木造りで、平安時代初期に造像された。ひざを中心に同心円状に表現されているのは、衣文(えもん)と呼ばれる着衣のひだ。当時は大きいひだと小さいひだを交互組み合わせた「翻波(ほんぱ)式衣文」が一般的だったが、本像は、大きいひだの間に2つの小さいひだを入れる室生寺特有の「漣波(れんぱ)式衣文」で、より滑らかで繊細な質感・量感が伝わってくる。 御仏が発する光明をかたどった光背は、板の表面を彫って文様を表現したものが多い。そうした中で、本像は2メートルを超える板をはぎ合わせた「板光背」に、蓮華文(れんげもん)や七仏薬師などを絵の具で彩色して描いている。その尊厳さは、まるで曼荼羅(まんだら)を見ているようだ。 寺伝では釈迦如来とされているが、本像は文献などから当初は薬壷(やっこ)を持たない薬師如来として制作されたと言われている。創建の経緯や薬師如来の護衛隊とされる十二神将立像とともに祭られていることからもうなずける。
中尊 釈迦如来立像
・読み:ちゅうそん しゃかにょらいりゅうぞう ・像高:234.8センチ ・時代:平安時代初期 ・所蔵:室生寺 ・指定:国宝「国指定名 木造釈迦如来立像(金堂安置)」 <【関連記事】リンク先で、六田知弘撮影の美しき仏像彫刻をご覧いただけます>