共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う
“自分は記者だからカネはいりません。その代わりに情報を下さい”
こんな逸話もある。 「ある時、伴睦さんが渡辺さんに“カネで困ったことがあったら俺に言え”と言ったそうです。渡辺さんは“自分は記者だからカネはいりません。その代わりに情報を下さい”と返した。それ以来、伴睦さんはカネではなく情報を渡すようになった、ともいわれています」(丹羽氏) とはいえ、伴睦氏から得た情報を次々と記事にしたわけではなく、 「渡辺さんはインタビューで“自分にとって最大の苦しみは、伴睦さんからもらった機密事項を特ダネにできなかったことだ”と語っています。おそらく伴睦さんを利用して記事を書こうとは思っておられなかったんじゃないかな。渡辺さんは8歳の時に父親を亡くしており、伴睦さんは父親のような存在だった、と渡辺さんは明かしています」(同)
政治の「プレーヤー」として
渡辺氏が政治記者として異質だったのは、時に政治の裏舞台を取材する立場を超え、「プレーヤー」として振る舞うことである。 例えば60年7月の自民党総裁選の際、岸信介氏からの支援を得る密約を結んでいた伴睦氏は、立候補を予定していた。 「そこで渡辺さんは密約が生きているか確認するため、岸さんのところへ行く。すると岸さんは“白さも白し富士の白雪”と答えたそうです。これは56年12月の総裁選に立候補した岸さんが伴睦さんに支援を求めた時、伴睦さんが岸さんに向かって言った言葉でした。つまり、密約は白紙、ということ。実際、支援する約束はほごにされました」(丹羽氏)
交渉の当事者となりながら、その裏舞台を記事に
61年ごろから行われた日韓国交正常化交渉を巡っては、交渉の当事者となりながら、その裏舞台を記事にする、という“離れ業”をやってのけている。キーマンとなったのは、韓国の朴正煕(パクチョンヒ)氏率いる軍事政権のナンバー2だった金鍾泌(キムジョンピル)氏だ。 「渡辺さんが金氏を伴睦さんに紹介したところ、意気投合。渡辺さんも随行し、まだ国交のない韓国を訪問するのです。そして当時の最高指導者だった朴正煕氏と伴睦さんが会談。朴氏は伴睦さんを料亭に招待して一晩中飲み明かし、最後は“一緒に泊まろう”とまで言ったそうです」(丹羽氏) そうした中、渡辺氏は「大平・金合意メモ」と呼ばれるものの存在を知る。それは伴睦氏が訪韓する1カ月前に当時の外務大臣・大平正芳氏と金氏が交わした手書きメモで、日本が韓国に対して行う経済協力の額が記されていた。そうした内容を含む韓国との交渉の詳細を報じるスクープ記事が読売新聞1面トップに大きく掲載されたのは、62年12月15日。もちろん書いたのは渡辺氏だ。