共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う
〈学者の道は閉ざされた〉〈しかし書くことは好きなんだ〉
しかし入隊から1カ月ほどが過ぎた8月15日に終戦を迎え、渡辺氏は死を免れた。大学に復学した後、反戦の考えと天皇制への疑問から、日本共産党に入党。しかしやがて党本部と対立するようになり、2年ほどで除名処分に。東大大学院を中退し、読売新聞社に入社したのは50年、24歳の時だった。 〈学者の道は閉ざされた。自分よりも頭のいいのがいるから。/しかし書くことは好きなんだ。物を書いて食える商売は何だろうと考えると、新聞記者しかないんだよ。それで『ジャーナリズムもこれを高度に発展させれば哲学だ』と変な理屈を言って、新聞社の面接を受けた〉(同書) 「読売ウィークリー」誌を経て政治部配属となったのは26歳の時。政治記者として頭角を現すのは、衆議院議長や自民党副総裁を務めた重鎮、大野伴睦氏の寵愛を受けるようになったのがきっかけだった。
「自分で書いたわけでもないのに“あれは私が書きました”と」
「渡辺さんが伴睦さんの番記者になったのは、55年の保守合同前です。当時、伴睦さんは自由党の総務会長でした」 そう語るのは、『評伝 大野伴睦』の著者で拓殖大学政経学部教授の丹羽文生氏である。 「番記者になって間もない頃、渡辺さんは伴睦さんの話をオフレコだと断ったうえでデスクに報告したものの、翌日の紙面にその内容が載ってしまった。怒り狂う伴睦さんに対し、渡辺さんは自分で書いたわけでもないのに“あれは私が書きました。申し訳ございません”と謝罪したのです」 その裏で、元時事通信記者の伴睦氏の秘書が、“あれは渡辺が書いたものではない。にもかかわらず全ての責任を背負って謝罪に来た”と伴睦氏に耳打ちしていた。 「おそらく伴睦さんは渡辺さんの潔さにほれ込んだのでしょう。これを機に二人の距離は一気に近くなり、渡辺さんは毎日のように伴睦邸に通うようになるのです」(同) 渡辺氏が担ったのは、伴睦邸の案内係だった。 「伴睦邸には連日のように多くのお客さんが来るわけですが、客同士が顔を合わせることがないよう、二つある応接間にお客さんを通す役目を任されていたのです。また、伴睦さんはお客さんが帰ろうとする時、必ずその靴の向きを直す。それも渡辺さんが代わりに担うようになりました」(同)