共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う
〈外務省がやらないんだから俺らがやってやる〉
新聞記者がここまで外交交渉に関わってもいいのか――。そんな疑問に対し、先の『独占告白 渡辺恒雄』ではこう答えている。 〈みんなそう言ったね。だけど国交がないんだ。ないものを作ろうと、これはお互いの国益にプラスなんだ。ない国との国交を、外務省がやらないんだから俺らがやってやるということだ〉 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)では次のように語っている。 〈僕は、新聞記者というものは権力の内部に入り政治権力がいかなるもので、どういうふうに動くのかを知らなければならないと思うんだ。中に入らなければ、事実は書けない〉 丹羽氏が言う。 「渡辺さんは権力に深く入り込んでしまい、いつの間にか自分が権力になってしまった。とはいえ、本質的にはジャーナリストだと思います。国家はかくあるべしという問題意識は常にお持ちになっていた。その原点には戦争体験があると思います。日本が再びどん底を味わわないように筆を使って権力を操った、と見るべきではないでしょうか」
中曽根康弘元首相との付き合いの始まり
伴睦氏の懐刀として時の首相や他派閥の領袖とも渡り合うようになった渡辺氏が早くから将来の首相候補と見込んでいたのは、中曽根康弘元首相だった。 「読売元社長の正力松太郎氏が政界に転じた後、自民党総裁選に出ようとした時、参謀だった中曽根さんとの連絡役にナベツネさんが選ばれました。これが二人の付き合いの始まりです」 と、日経新聞元政治部長の岡崎守恭氏が言う。 「正力氏は初代原子力委員長、科学技術庁長官も務めました。原爆のことがあったため、原子力は当時タブーでしたが、読売だけは『平和の原子力』というキャンペーンを張っていた。中曽根さんはアメリカの原子力政策を勉強し、推進する立場だった。それで正力氏は中曽根さんのことを気に入り、ナベツネさんに連絡役を命じたのです」
「中曽根さんは信用できる」
気脈を通じた2人は勉強会を始めた。 「メンバーは中曽根さん、ナベツネさんと、元産経新聞記者の福本邦雄さん。ナベツネさんが政治の本、福本さんが経済の本を1週間に1冊読んできて、勉強会で内容を話す。中曽根さんはそれを必死にメモするのです。その姿を見て、ナベツネさんは『中曽根さんは信用できる』と思ったといいます」(岡崎氏) 渡辺氏のバックアップもあり、82年、中曽根氏は首相の座に就く。渡辺氏が読売新聞の専務取締役主筆兼論説委員長に就任したのはその3年後の85年だ。そして91年、ついに社長になった。 後編【「これだけ勉強家で、努力家で、原稿を書ける人はいない」「渡辺さんを『偉大』とは言わない」 渡辺恒雄氏の知られざる素顔とは】では、毀誉褒貶の激しい渡辺氏の素顔について、数々の証言を紹介している。 「週刊新潮」2025年1月2・9日号 掲載
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