「人が11年以上、住めなかった街」に子連れでなぜ戻ったのか 福島・双葉、原発事故で全町民が避難「昔は出たかったけれど…」 #知り続ける
2月中旬、山根光保子さん(41)は3人の幼い娘と一緒に自宅を出た。季節外れの陽気の中、久しぶりの散歩だ。 「ここは桜が咲くとすごくきれいなんだよ」、「図書館の学習室はよく使ったな」。昔の話を娘たちに伝えるのには、理由がある。 「どんどん消えていってしまうから」 地域は建物の解体が進み、景色が様変わりした。 福島県双葉町は、2011年3月の東京電力福島第1原発事故で全町避難を強いられ、人が11年以上住めなかった。町に暮らすのは100人ほどで、学校も小児科のある病院もない。それでも山根さんは戻ってきた。昔は「双葉を出たかった」という。県外で働いてもいた。考えはなぜ変わったのか。(共同通信=横上玲奈)
「地元を出たい組」だった
山根さんは双葉町の高校を卒業後、名古屋市の専門学校に進学した。就職先は埼玉県狭山市でフルートを製造する会社。 「『地元出たい組』だった。双葉に思い入れはなかった」 数年後、実家の父にがんが見つかった。母は運転免許を持っていない。2人の姉は結婚して家を出ている。仕事は好きだったが、「親孝行をしよう」と25歳で地元に帰った。 父の三回忌を済ませてすぐの2011年3月11日は、勤務先の花屋の社長と、仕入れのため仙台市にいた。大きな揺れの後、社長が運転するトラックで帰ろうとしたが、高速道路は通行止め。海側の道へ近づいたら人に止められた。 「津波が来ているから早く山の方へ逃げなさい」。慣れない山道を走り、深夜になって実家に着いた。
「仕事がしたい」と埼玉へ
夜が明けた時、福島第1原発は危機的な状況になっていた。12日早朝、避難指示が町の全域に及ぶ「10キロ圏」に出た。母の正子さんや近所の人と一緒に、車で田村市へ移動。 体育館で5日間ほど過ごした。姉の一家と合流したが、日に日に悪化する原発の状況を知った姉は、幼い子どもへの影響を恐れるようになった。みんなで会津若松市に移った。 避難所暮らしが続くにつれ、「仕事がしたい」と思った。以前勤めていた埼玉県のフルート製造会社に連絡すると、急きょアルバイトで雇ってもらえることに。震災翌月の4月、被災者を受け入れていた埼玉県入間市の市営住宅へ、正子さんと移った。 山根さんは「このままここにいられたら」と思ったが、正子さんは「福島に帰りたい」と口にした。 10月に福島県いわき市の仮設住宅へ移ったものの、正子さんは体調を崩して翌12年4月、63歳の若さで亡くなった。 「もう少し気遣ってあげればよかった」