「人が11年以上、住めなかった街」に子連れでなぜ戻ったのか 福島・双葉、原発事故で全町民が避難「昔は出たかったけれど…」 #知り続ける
双葉町に関する仕事をすれば…
正子さんの葬儀には、驚くほどたくさんの人々が駆け付けた。多くは各地に避難していた双葉町民。地元でタクシー会社の電話受けなどをしていた母は、町内に知り合いが多い。生前は避難中も「あそこの人はどうしてるかな」と気に掛け、それを聞いていた山根さんも、人々の様子が気になるようになった。 「双葉町に関する仕事をすれば、そういった情報が分かるかもしれない」 ちょうど「復興支援員」の募集があった。町から業務委託を受け、地域コミュニティーの再構築などを担う仕事だ。すぐに応募し、支援員になった。
「帰れるようになったら帰るよ」
業務の中には、町のコミュニティー誌作成もある。各地に避難する町民を取材して回った。 町内各地区の伝統芸能保存会の代表にインタビューすると、年配の人たちがすごく楽しそうに盆踊りや神楽の話をしてくれた。 「双葉にはおもしろい人がいるんだな、そんな人が育った双葉ってすごい」 年配者と話すと、どうしても「今後」の話になる。 「次に帰るのは墓に入るときだべ」「何年かしたら双葉なくなっちまうべ」 返答に困った。何か希望が持てるようなことを言いたい。母の葬儀や取材を通して双葉の大切さも感じていた。 「帰れるようになったら帰るよ」。そう口に出すようになった。
苦難の道を歩んだ双葉町と町民
双葉町は、原発事故の影響を受けた自治体の中で最も苦難の道を歩んだ。メルトダウンや水素爆発で、避難を強いられたのは全町民の約7千人。町役場の機能も転々とし、福島県川俣町からさいたまスーパーアリーナへ、さらに埼玉県加須市の廃校舎へ移った。 自治体として福島県外へ避難したのは双葉だけだ。 山根さんも「50年とか、一生住めないかなと思っていた」。 ところが事故から6年ほどたった頃、「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」の計画ができた。それによれば、帰還困難区域の一部を先行的に除染し、5年ほどで住めるようにする。
「絶対に安全とは言い切れない」
山根さんの人生にも転機が訪れていた。2016年、同じ復興支援員として出会った東京出身の辰洋さん(38)と結婚し、翌年には長女が誕生。21年には3人目の妊娠が判明した。 当時、既に家族で双葉へ帰還する準備をしていたが、迷うこともあった。 「放射線の影響があり、絶対に安全とは言い切れない。赤ちゃんを連れて帰って大丈夫かな」 周囲は否定的な声が多かった。それでも、若い世代が帰らないと双葉町は将来なくなるかもしれない。子育て世代が増えてほしいと思っているのに、自分が帰らないのはおかしいし、周りにも勧められない。 「勝手な使命感」から、12年ぶりの2023年3月に町へ移り住んだ。