娘の死から最期まで22年の日記に吐露された心情 「只生きている。死ねば完了」の境地に至るまで
お母さんが長野に行く直前に“サヨナラ”をしました。 ムッチャンとのつき合いから 14年間 まわりのみんなを幸せにしてくれました。 多謝! モモ! 再見!> 日記を書き始めた頃、モモはムッチャンと現世をつなぐ特別な存在だった。T医師はモモの眼差しや声をかけたときの反応の隅々にムッチャンをみていた。しかし、モモが衰弱して死を迎えるまでの1年半の日記からは、故人との架け橋が失われていく絶望のようなものは感じられなかった。ただただ家族の一員としてモモを心配し、そして死後には悲しんだ。
この数年の間にT医師の中でムッチャンとの死別が、悲しくも折り合いのついたものになっていったように感じる。 振り返れば、2004年頃の12冊目のノートの表紙からは「Mへ」との記載がなくなっている。日記の書きぶりからも、2000年頃から2010年頃にかけて、ノートの向こう側にいるムッチャンが少しずつ遠くになっていった感触がある。 変化した先にあったのは、ムッチャンに語りかけるためのですます調をそのままに話し相手が霧散した独白だった。2012年5月の日記。
<5.25(日)pm9.25 ムッチャンのボーシを描きました 前はもっと一生けん命かいたのに、 近頃はその一生けん命がないのです。 何故? 生きていることが一生けん命ではないからだ。 でも一生けん命生きようとしています。 この下らない世の中で。> ■二人称の死から一人称の死へ 翌年の秋にはゴンもこの世を去った。 <'13.10.2(水)am5.00✝ GON! (略) ゴンの死は、何か、どすんと。
これからのお母さんが心配です> 家族のメンバーが次々にいなくなっていく。自身の老いも自覚している。2005年に妻のSさんが運転する自動車で移動中に追突事故に遭い、その3年後に手足のしびれが出て、通勤にも送迎をお願いするようになった。 ゴンの死から2日後、散歩したと記す短文がもの悲しい。この年、T医師は80歳になっている。 <10.4(金)pm9.25 アサ、サンポ(2人) これからは2人きりです。>