娘の死から最期まで22年の日記に吐露された心情 「只生きている。死ねば完了」の境地に至るまで
<10.9(火)pm8.40 Mは死んだ。どこにも居ない。 只、お父さんの心の中に居る。 Mに会いたい。 死ねば会えるか? 不! 。 お父さんが生きていないと会えない。 お父さんが死ぬと、お父さんもMも 居なくなるのです。 だから一生懸命、生きているのです。> ■対話先としてのムッチャンの喪失 新居に移り、次女とも別々に暮らすようになった。夫婦と2匹の犬と暮らす日々。70歳を超えてもT医師は現役で働いており、囲碁も旅行も大いに楽しんでいる様子だ。時に家族の愚痴をこぼし、バレンタインデーに職場でチョコを貰って喜んだり、酔いに任せてモモやゴンの雑なスケッチを見開きで描きなぐったりと、俗なところも包み隠さずストレートに残している。
ムッチャンもやはり頻繁に登場する。命日やお墓参りをした日、夢で会えた日などに、形見のスケッチと一緒につづっている。また、深酒して感情があふれ出たときには「ムッチャン!」と紙面上で叫んだりもした。以前目にしたのはこの頃のノートだったようだ。 ただ、その頻度は少しずつ下降線を描くようになっていく。2004年の夏には、こんな記述が残る。 <8.22(日)p.8.50 Mが亡くなったとき、 ベートーベンをものすごく聴きたかった
勇気を与えてくれた.勇気を必要とした。 今はしかし、少しも聴きたくない(もう勇気はいらないのか? ) 聴きたいのは只、バッハ、ヘンデル、×のバロック(シューベルトも少し)> 夢にあまりムッチャンが現れてくれなくなった、とこぼす日記もこの頃に見られた。それでも形見のスケッチはたびたび描かれ、親子二人でススキ野原を歩きながら童謡を歌った思い出の情景も繰り返しノートを埋めている。ムッチャンとの思い出を筆に乗せるのは、やはり必要な行為だった様子だ。
■架け橋ではなくなっていたモモ 2008年に75歳=後期高齢者となっても、T医師の暮らしと内面に大きな変化はなかった。しかし、2011年の秋にはモモが老衰でこの世を去る。 <11.15(火)pm8.35 モモ死了! (am 7.25) 眠ったままでした。 1年9ヶ月間、苦労したおかげか、 最后は実にスムーズでした。 昨日なんか 耳だれが癒ったなんてお母さんが言うほど。 最后の瞬間、お母さんに抱かれて、幸せでした。