激痛、嘔吐、15キロのむくみ…私を生かした兄の肝臓 「死んでたまるか」手術から職場復帰までの歩み(後編)
肝臓と肺の難病を患っていた私は、27歳だった記者5年目の2023年春、肺の状態が急激に悪化し、事実上の余命宣告を受けた。 【写真】4歳だった息子は、病室で「ぼく、死む」と何度も口にした 39度の熱が出て受診、帰宅後に鼻血。耳なじみのない病名に…
病気の原因と考えられる肝臓を取り換えれば進行が抑えられる。移植に向け、治療をハイペースで進めた。家族全員がドナーになることを希望し、話し合いを重ねた末、2歳上の兄の肝臓をもらうことになった。 医師から厳しい言葉を告げられたあの日から8カ月。手術で死亡するリスクもある。「明日のこの時間はもう、この世にいないかもしれない」。歯を食いしばって耐えた夜が明け、私は兄とともに、手術室に向かった。(前編より続く、共同通信=高木亜紗恵) ▽手術へ 肝臓移植の手術までの約1カ月間はとにかく好きなことをして過ごした。演劇を見に行ったり、花の写真を撮りに行ったり。急きょ日取りを早めてくれた姉の結婚式にも出席した。穏やかな毎日だったが、いつも胸の中に大きな塊があるよう。夜は睡眠薬が手放せなかった。 手術が数日後に迫った2023年11月半ば、いよいよ入院が始まった。薬剤師や栄養士、集中治療室(ICU)の看護師が、入れ代わり立ち代わり病室を訪ねて来た。友人や家族との面会もあり、せわしなく過ごした。
どんな状況にあっても、家族や友人から見た自分は「らしく」ありたかった。だから泣くことも取り乱すこともしなかった。でも、手術前日の夜はさすがに気分が落ち込んだ。明日のこの時間はもう、この世にいないかもしれない…。胸が痛くなり、涙が止まらなかった。 それでも、必死に助けようとしてくれている家族を思い、歯を食いしばった。兄は自分を助けるためだけに臓器の一部を取るのだ。家族全員が「ドナーになるよ」と言ってくれたことも思い出した。「死んでたまるか」。天井に向かってつぶやき、睡眠薬を多めに飲んだ。 手術当日の朝は手術着を着て、家族が勢ぞろいする待合室に顔を出した。兄は私を元気づけるためか、いつもの調子で冗談を言っていた。午前8時、同時に呼ばれ、兄と共にエレベーターを降りて別々の手術室へ。どこか夢を見ているような感覚だった。 名前を確認し、ゆっくりと手術台へ上る。ここから先は自分の意思ではどうにもできない。おなかに手を置き、肝臓の上をゆっくりとなでた。生まれ持った臓器を失うのは脾臓に続き2回目。自分の体に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。