激痛、嘔吐、15キロのむくみ…私を生かした兄の肝臓 「死んでたまるか」手術から職場復帰までの歩み(後編)
こうした症状のつらさとは裏腹に、全身の機能は着実に回復し、安定していた。主治医は「順調すぎるくらい順調」という言葉を毎日かけてくれた。ポコンと膨らんだ右の腹部も、「ここに立派な肝臓があるから、大丈夫」と言ってくれているようで、先の不安はほとんどなかった。 ▽移植者として 重症度が低いICUに移動してしばらくたつと、痛みを忘れられる時間が増え、家族と普通に話ができるようになった。塗り絵をしたり、スポーツ雑誌を読んだりする余裕も生まれた。 そんなある日、突然主治医の口から「退院」という言葉が出た。年内に退院できるとは夢にも思わず、一層リハビリに励んだ。 移植者は免疫抑制剤を使用しているため、感染症にかかりやすく重症化しやすい。ペットがいる実家とは別の場所にアパートを借りて、エアコンの清掃をするなど、家族は大急ぎで退院の準備を進めてくれた。 移植から22日目の12月19日、ついに退院。おなかにはチューブが刺さり、痛みも治まっていない。それでも久しぶりに外の空気を吸えたことがうれしく、一日中はしゃいだ。
自宅に戻ってからも、チューブから流れ出た胆汁を点滴でおなかの中に戻すといった処置を続けた。Lの字を反転したような傷痕は、医療用のホチキスが刺さったまま。時々血がしみ出し、パジャマを血だらけにした。少しずつ元の生活を取り戻すため、車いすで近所に出かけた。 24年2月にはチューブやホチキスが抜けて、体が自由になった。そして3月、肺高血圧症の検査を実施。肝移植の効果で数値は大きく改善していた。どこまで良くなるかは未知数だが、進行は止まったと考えられた。 いよいよ職場に戻るイメージがつき、復職したい旨を上司に伝えた。会社には過去に肝移植をして記者職に戻った例がなかったが、上司らの理解もあり、5月、職場復帰を果たした。 久しぶりにスーツに腕を通し、慣れ親しんだ職場へ足を運んだ。人事異動を経てすっかりメンバーは入れ替わり、多くの同僚に「はじめまして」とあいさつ。今、治療を受けられた喜びを噛みしめながら、パソコンに向かってキーボードを叩いている。
これからは記者であって、移植者でもある。そんな自分にどんな記事が書けるか、問いかける毎日だ。 【前編はこちら】「数年で死、手術もできない」難病進行、異常な息切れ 命をつなぐため肝臓移植へ…記者が知ってほしい「臓器をもらうとは」(前編)