海軍乙事件の全容 漂流する中将らが投棄した“機密文書”が、その後の戦局を左右した
マリアナ沖海戦の3カ月前、日本海軍はその後の作戦に大きな影響を及ぼすミスを犯していた。昭和19年(1944)3月、機密文書を紛失したのである。世にいう「海軍乙事件」だが、日本海軍はその対処においても、過誤を重ねてしまう。そこから見える日本海軍の問題点に迫る。 【写真】山本五十六は「戦艦無用論者」だったのか? ※本稿は、『歴史街道』2024年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
劣勢となった日本海軍
太平洋戦争での日本の敗北の原因を「国力の差」、「物量の差」、「科学技術の差」とみることが多い。隠れた原因として「情報戦での敗北」があるが、その一例として「海軍乙事件」が挙げられる。 「海軍乙事件」とは、連合艦隊司令長官古賀峯一大将の遭難事件をいい、それに付随して秘密漏洩事件が生起している。 昭和18年(1943)4月21日、戦死した山本五十六大将の後任として連合艦隊司令長官に親補された古賀峯一大将は、トラック島の戦艦「武蔵」に将旗をあげ、参謀長に福留繁中将を起用した。福留中将は、海軍大学校甲種学生を首席で卒業した秀才であり、戦略・戦術の大家とみなされ、太平洋戦争では文字通り日本海軍の作戦を担ってきた。 昭和18年9月30日、日本政府は防衛線をマリアナ─カロリン─西部ニューギニアの線まで後退させ、これを「絶対国防圏」とすることを決定した。トラック島は、「絶対国防圏」の拠点であった。 昭和19年(1944)2月7日、アメリカ海軍のトラック島襲撃は必至と判断した古賀長官は、連合艦隊の艦艇にトラック島からの後退を命じる。同時に、連合艦隊司令部をトラック島の西方約2000キロメートルにある、内南洋の拠点パラオ島に移動させることにした。 2月17日、トラック島がアメリカ海軍機動部隊による大規模の空襲を受けた。この情勢を受けて、連合艦隊司令部は、「Z作戦計画」を起案した。 「Z作戦計画」は、内南洋方面にアメリカ軍の有力部隊が侵攻した場合の迎撃作戦である。積極的な作戦思想の持主である古賀長官の強い意向を受けており、計画書には作戦方針、参加兵力、部隊の編成と配備計画、戦闘要領が記されていた。「Z作戦計画」は、福留中将の見識が反映された、漏れの無い、緻密な計画であり、3月8日に発令された。