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真野公一

ヤメ暴たちの「再就職」事情 ――「世間様の風は氷のように冷たかった…」

2018/05/30(水) 09:57 配信

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「ヤクザに人権はないのか」「好きでヤクザをやってきたんだから自業自得だ」。暴力団に対する取り締まりが強化されるなかで、よくそんな議論が起きる。暴力団の構成員が全国で2万人を割ったいま、ヤクザの社会復帰支援は社会が抱える大きな課題である。暴力団を離脱した元ヤクザたちは「再就職」の厳しい壁に直面していると言われる。果たして実態はどうなのか。現状を追った。(取材・文=今西憲之、鈴木毅/Yahoo!ニュース 特集編集部)

大阪・西成の「駆け込み寺」

細く入り組んだ路地の先に、その喫茶店はあった。年季が入った黒光りするカウンターにテーブルが二つ。もう春だというのに日雇い労働者の街、ここ大阪市西成区の下町は肌寒く、店では石油ストーブの上でやかんが湯気をあげていた。60歳過ぎのマスターが同年代の、紺色のジャージーに身を包んだ丸刈り頭の男にコーヒーを注ぐ。

「まあ、マスターのところにコーヒーよばれてタバコを2、3本分けてもらうのが、週に1、2回の楽しみや」とつぶやく男性の両手の小指は先端が欠けていた。少しまくり上げた左腕の袖から、ちらちらと入れ墨が見え隠れする。

「3年ほど前まで組(暴力団)にいたんや。けど、もうヤクザでは食っていけん。最初は西成で日雇いに出た。そもそもヤクザもんを雇う会社なんてないし、履歴書すら書けないから。だけど、日雇いも半年ほどして体を壊して働けんようになった。ドヤ(簡易宿泊所)に泊まるカネすら事欠いて、マスターに相談したら生活保護をもらえるように手配してくれた」

かつて準構成員も含めて「4万人軍団」と言われた山口組は、分裂の影響もあって勢力は約4分の1まで落ち込んだ。写真は2018年2月26日にあった山口組総本部の家宅捜索(撮影:時事)

これでも10年ちょっと前までは、大阪で少しは知られるヤクザだった。山口組系3次団体の組長として、多いときで30人以上の子分を従えていた。ところが、賭場のシノギ(暴力団が収入を得るための手段)をめぐって山口組系同士で対立し、それをきっかけに組は解散。

「年々、警察の締め付けがきつうなって、ヤクザはもうからん商売になってしまった。それで嫌気がさして、組を解散して堅気になったんや。なんとか食っていけるだろうと思ったが、背負っていた山口組の『菱形』の代紋がなくなり、同業者からは冷たくされ、元ヤクザという『肩書』もついてまわる。世間様の風は氷のように冷たかったわ……」

マスター自身も、若い時はヤクザの世界に身を置いていた。喫茶店を始めて30年近く。店は、いまや元ヤクザの「駆け込み寺」のようになっているという。

「こうやって西成で喫茶店やっていると、食えない元ヤクザが毎月のように相談に来るわ。警察はヤクザを辞めろと言って法律を厳しくする。だけど現実は、辞めてもヤクザだったから雇えないと言われて仕事がない。どうしろいうねんな。結局、生活保護の税金で元ヤクザを食わせるってことになる」

「5年ルール」の壁

暴力団から離脱した組員、いわゆる「ヤメ暴」は年々増えている。警察庁のまとめによると、全国の暴力団の構成員数は2016年末に、統計のある1958年以降初めて2万人を割り、2017年末は1万6800人(前年比1300人減)。ピークだった1963年(10万2600人)の6分の1程度になった。

これは警察が近年、組織犯罪の撲滅を旗印に暴力団への取り締まりを強めてきた成果でもある。大きな転機は、1992年に施行された暴力団対策法と、2011年10月までに全都道府県で整備された暴力団排除条例だった。いまや暴力団関係者は、銀行口座を作れず、保険に入れず、車も持てず、賃貸住宅も借りられない。暴力団のシノギは制限され、彼らの生活は困窮しつつある。多くの組員にとって、ヤクザはもはや「食えない職業」になっているのである。

ヤクザを辞めた後にも、厳しい現実が待ち構えている。長年にわたって「ヤクザ」の弁護活動を続けてきた元弁護士で作家の山之内幸夫氏はこう語る。

「その大きな要因が、いわゆる『5年ルール』です。暴排条例では、ヤクザを離脱してもおおむね5年間は暴力団関係者とみなされ、銀行口座開設や家の賃貸契約などができない。まともな社会生活を送る基礎を築けないのです。就職だって、よほど理解のある会社でないと無理。そうなると、できることは限られてくる。日雇い仕事などに出るか、小金があればインターネットカジノなど小規模な賭博をやってみるか。あるいは、違法なクスリの売買に手を出して生計を立てるか。ヤクザは辞めた、だけどやっていることはヤクザと変わりがないということになってしまう」

就職はわずか2%

警察庁の資料などによると、2010〜2016年、暴力追放運動推進センターなどの支援を受けて暴力団を離脱した人数は計4170人。このうち当局が把握している就労人員数は計90人。つまり、きちんと就職先が見つかったのは全体の2%ほどしかいない。残りの98%がどうなったのかを捕捉する仕組みもないのが実情だ。

実際、“ヤクザもん”を受け入れる会社は限られている。暴追センターの報告では、就労支援は土木建築、造園業、道路舗装業、運送業、板金加工業など現場労働系がほとんどで、それ以外の、例えば接客業などはごくわずかだという。

札幌市の建設会社「北洋建設」は、これまで約45年間で500人以上の元受刑者らを雇用してきた。現在も社員61人のうち元受刑者が19人。元ヤクザも1人いる。小澤輝真社長は日々、彼らの社会復帰をサポートするために全国を飛び回っている。「これまで数えきれないヤメ暴を雇ってきた。入れ墨が入っていたりすると、普通は就職できません。いくらサポートが必要だと言っても、そんなこと誰もやりませんから。うちはある意味、慣れているけど、普通の会社はそんなリスクはとらないのです」と語る。

刑務所で受刑者を相手に講演する北洋建設の小澤輝真社長(提供:小澤輝真氏)

元ヤクザ本人の意識の問題もある。小澤社長によると、雇った元受刑者のうち9割はすぐに辞めていってしまうという。その代わり、ものすごく真面目な1割が残る。実際、暴追センターなどには、就職先でなじめなかったり、トラブルを起こしたりしてすぐに辞めてしまう報告が数多くあるという。これもまた、現実なのだ。

こうした状況のなかで、暴力団離脱後に一定の職にありつけた「成功例」はまれだ。久留米大学文学部非常勤講師(社会病理学)の廣末登氏によると、一般社会に復帰できた離脱者の多くに共通する要因は「人とのつながりがあったこと」だという。

入れ墨を背負ったタクシー運転手

未明の大阪市内の繁華街を、1台のタクシーが客を求めて流していた。ハンドルを握るのは、40代半ばの山田浩太さん(仮名)。口調はあくまでも丁寧で実直な印象を受けるが、ワイシャツの下の背中には、大きな「観音様」が描かれている。5年ほど前まで、山口組の有力3次団体のナンバー2(若頭)として手腕を振るい、繁華街でもちょっとした顔役だった。

「自分は恵まれていると思う。いまの会社には、すごく恩を感じています」

勉強は嫌いだった。中学卒業と同時にすし屋に修業に出た(撮影:真野公一)

山田さんが所属していたのは、山口組の最高幹部直系のX組。組に入った20代半ばごろは、大阪では山口組関連の暴力団の抗争で、連日のように発砲事件などが起きていた。ヤクザの礼儀作法を一から学び、頭角を現した山田さんは、山口組最高幹部である上部団体組長のボディーガードに選ばれる。鉄板入りのカバンを手に、防弾チョッキに身を包み、組長の警護に当たる日々。いつしか警護班の班長に昇格し、自分の子分も増え、事務所の看板も掲げた。

地元の繁華街に飲みに出ると、「カシラ、お疲れさまです」とあちこちから声がかかる。まさにヤクザ映画のように肩で風を切り、街を闊歩していた。債権回収、ブランド品販売などのシノギも順調で、高級外車を乗り回した。

そんな生活から足を洗ったのは、抗争事件をめぐるトラブルで逮捕されたのがきっかけだった。警察の取り締まりは年々厳しくなっていた。「抗争で刑務所に入るのは仕方ない。けれど、いまは出所の祝いもできないし、ご苦労さんの金一封もダメや。ヤクザの常識が通じなくなった。時代が変わってしまった」。服役後には組内部のトラブルもあって、気持ちがどうにもならなくなっていた。

「そんなとき、ヤクザになって以来、会っていなかった父親が、重病を押してやってきたんです。何も言いませんでしたが、心を見透かされているようでした」

そこで踏ん切りがついた。山口組の代紋はなくなり、高級外車などめぼしいものは別れた妻子に渡した。まさに裸一貫だった。

「Gマーク」が外れない

助けてくれたのは、それまでの「人間関係」だった。知り合いの社長から居酒屋を1軒まかされ、3年間、責任者として働いた。「最初こそヤクザ渡世のくせが抜けず、客から偉そうに言われると反発する気持ちもありましたが、もともと商売人の血が流れているのでしょう。いずれ自分で店を持ちたいと思っていたところに、ありがたいことに次の仕事の話がきました」

ヤクザ渡世に戻ろうという気持ちになったことはない、という(撮影:真野公一)

知人の紹介でタクシー運転手になったのは、3年ほど前のこと。元ヤクザで大丈夫なのかと心配したが、知人がタクシー会社の上司に「過去にヤクザだったが、いまは真面目にやっている」とうまく話してくれて就職できた。毎月30万円程度の収入で、独り身なら十分生活できる。少しずつ貯金も始めた。

自分の素性は上司にだけ伝えていた。だが、会社で加入する生命保険の審査が通らなかったことで、社長も知るところとなった。

「組を辞めた時に警察に行って破門状を渡しましたが、まだ『Gマーク』(警察用語で暴力団構成員の認定を受けた人のこと)が外れてないんでしょう。クビも覚悟しましたが、上司が『真面目に働いている』ととりなしてくれて、社長も納得してくれました」

「まわりの人たちとのつながりをつくるのは、結局、自分自身です」(撮影:真野公一)

ヤクザだった過去は一生ついてまわる。だから常に、もしもダメになったときの「次」を考えているという。

「自分のまわりのヤクザを辞めたうちの99%は、生活ができなかったり、犯罪に戻ったりしている。ヤクザは嫌われる存在です。だけど自分は、古参ヤクザの先輩から『誰からもかわいがってもらえるヤクザになれ』と教えられ、それを実践しようと努めてきた。だから、いま正業で食えているんだと思う。料理の腕はあるんで、いつか自分で鉄板焼きの店を開くのが夢です」

もう一人の「成功例」

東海地方のあるターミナル駅で落ち合った30代半ばの河野和義さん(仮名)から差し出された名刺は、個人経営している電気工事店のものだった。ヤクザを辞めたのは7年ほど前。スポーツマン風のさわやかさは、長年ヤクザの世界にいた人物というイメージと結びつかないだろう。

「中学時代まではサッカーをやっていたんです。センターフォワードで、自慢じゃないですが、地区の選抜メンバーに選ばれ、ユースチームにも入り、当時の夢はJリーガーでした」とワイシャツに作業着姿で苦笑する。

ヤクザ社会の「修業」は、「少年院よりも厳しくて、それが逆に新しい感覚だった」(撮影:今西憲之)

両親が離婚したことで家庭が荒れ、10代は少年院入りを繰り返した。何度目かの少年院から戻ってきたときに、顔見知りの地元ヤクザの幹部に声をかけられた。「おまえ、少年院ばかり行ってたらどうしようもないぞ。うちへ来い」。親身になって話を聞いてくれるその姿は、両親から見放され、無鉄砲な人生を送ってきた河野さんにとって新鮮だったという。

こうして山口組系Z組の門をたたいたのは20歳のとき。組員300人を超える地元屈指の有力組織で、そのいちばん下っ端として組事務所に住み込み、ヤクザ社会の「修業」に入った。23歳のときに対立組織との金銭トラブルをめぐって逮捕。刑期を終えて出所すると、刑務所の門で大勢の組員が待ち構えていた。いわゆる「放免祝い」だ。ここが、自分の“居場所”だと思った。

事件を機に組織で出世し、自分も「河野組」の看板を掲げ、若い衆を抱えるまでになった。

「組長」から「雑用係」に

しかし、時代は変わる。別の事件で逮捕され、刑務所から出てきたときには、Z組は抗争事件で親分以下、幹部が軒並み逮捕されて大混乱に陥っていた。信頼し、あこがれていた組長たちはもういない。残った幹部たちともソリが合わず、売り言葉に買い言葉でヤクザを辞めることを決意した。世話になった組長の妻「姐さん」に宛てて手紙を書いた。

「申し訳ございません。ヤクザをやめます。その代わり、地元を離れます」

かつては若い組員から「組長」と呼ばれ、一声かければ簡単に数十人が集まった(撮影:鈴木毅)

頼った先は弟だった。弟は高校卒業後、東京・新宿でボーイから始めて、ホストクラブ、キャバクラ、飲食店など手広く事業を展開していた。河野さんは弟の知り合いのキャバクラで一から修業を始めた。

「つい最近まで『組長』と呼ばれ、ふんぞり返っていた。それが、若い女の子からアゴで使われる雑用係です。毎日、時間通りに出勤して、掃除して、挨拶して、と昔に戻った気分で頑張りました」

1年後には独立し、地元の東海地方で会員制の高級ラウンジをオープン。姐さんの温情もあったのだろう、心配していた古巣とのもめごとは起きなかった。当然、自分名義では営業許可も取れないため、自分はコンサル業としてかかわった。売り上げは上々。その後、バーや居酒屋などにも手を広げた。そして、店で知り合った客が電気工事士の資格を持っていたことから、意気投合して一緒に電気工事店を始めることになったのである。

「最近ではマンション1棟分の電気工事など大きな仕事も取れるようになった。いまは飲食業よりも売り上げが大きくなりました」

融資が下りない

しかし、心にはいつも不安を抱えている。

さらなる事業拡大を、と思っていた矢先に地元銀行から融資の話が舞い込んだ。確定申告書などの書類をそろえて担当者に見せると、「これなら絶対に大丈夫です」と言う。ところが、融資実行の書類準備のために銀行の支店に行くと、状況がガラリと変わった。別室に連れていかれ、「申し訳ありません、本部がどうしても取引口座を作れないと……」。

理由は聞かなくても分かった。「仕方ありません、わかりました」と頭を下げ、河野さんは銀行を後にした。

日本最大の指定暴力団「山口組」は2015年8月末に分裂し、「ヤクザ社会」は激変している。写真は分裂直後の同年10月2日にあった山口組総本部の家宅捜索(撮影:時事)

いま河野さんの背中には自身の家族だけではなく、10人を超す従業員の生活がかかっている。いつまでも個人事業ではやっていけない。しかし、株式会社化して代表取締役になったら、どうなるのか。電気工事の仕事も、自分の素性がわかったら契約を切られるだろう。

「ヤクザになっていなければ、こんな心配はなかった。けれど後悔はない。元ヤクザという肩書はずっとついてまわるでしょう。それは覚悟の上です」

「北風」と「太陽」

いま、自治体などで離脱者支援のさまざまな取り組みが始まっている。福岡県などでは、離脱者を雇用した企業に助成金を出している。東京の弁護士を中心に、銀行口座開設などの支援策の検討も始まっている。しかし、一方で「さんざん悪いことをしてきた人間に、離脱したからといってなぜ支援しなくてはならないのか」という声があるのも現実である。

それでも、先の久留米大の廣末氏はこう指摘する。

「危険なのは、離脱者が社会復帰をしたくても許容されない現実が、彼らを追い込んでいることです。組織の掟から解放された彼らは、やりたい放題のアウトローとなって新たな脅威になりかねない。規制を強める“北風政策”ばかりでなく、社会の中で抱え込む“太陽政策”がないと、より悪いものを生んでしまう可能性があるのです。そのためにも、社会全体で問題意識を共有し、受け皿を整えることが必要です。一つは、職業選択の幅が広がることが望ましい。そして元ヤクザにとっていちばん大切なことは、彼らの居場所があることです。そうでないと、仕事に就いても長続きしませんから」


今西憲之(いまにし・のりゆき)
ジャーナリスト。1966年、大阪府生まれ。大阪を拠点に週刊誌や月刊誌の取材を手掛ける。著書に『内部告発 権力者に弓を引いた三人の男たち』(鹿砦社)、『私は無実です 検察と闘った厚労省官僚 村木厚子の445日』『福島原発の真実 最高幹部の独白』(ともに朝日新聞出版)など。

鈴木毅(すずき・つよし)
1972年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒、同大学院政策・メディア研究科修了後、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」副編集長、「AERA」副編集長、朝日新聞経済部などを経て、2016年12月に株式会社POWER NEWSを設立。


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