東京・下北沢。かつてこの場所には、戦後の闇市をルーツに持つ「駅前食品市場」という名前の横丁が存在していた。1980年代初頭までは50軒ほどの衣料品店、飲食店が軒を連ね、劇団員やミュージシャンらがトタン屋根の下で朝まで飲み明かし、夢を語った。その後、横丁の店は徐々に減少し、2017年8月には名物酒場が一軒残るのみとなった。なぜ横丁は磁石のように人を惹きつけ魅了し続けるのか。消えゆく酒場の越年に密着した。(ノンフィクションライター・中原一歩/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中一部敬称略)
「みっちゃん」と呼ばれる酒場があった
2017年12月28日の午前1時。東京・下北沢駅に乗り入れる二つの私鉄、京王・井の頭線、小田急・小田原線の最終電車が音を立てて走り去ると、それまで賑やかだった駅前は一転、深い静寂に包まれた。駅改札から1分もかからない場所に、その名物酒場はある。佇まいは、まるで戦後のバラックだ。映画のセットに迷い込んだかのような強烈な個性を放っている。闇夜に浮かぶ電球は、真っ暗な深海で不気味な光を放つ深海魚のようだ。店の屋号は「三好野」(みよしの)だが、そう呼ぶ人は誰もいない。ただ客は、店主の仁尾貢(にお・みつぐ)さん(61)の名前をもじって、親しみを込めて「みっちゃん」と呼ぶ。
煙草の煙に燻された飴色のカウンターは、大人が5人も座ればいっぱいになる。店に玄関はなく年じゅう開けっ放し。客は夏だけでなく冬も目の前の路地にはみ出して、立って酒をあおる。店にメニューはない。置いてあるのはビール、焼酎の水割り、お湯割りなど。飲み屋には違いないが、いわゆる居酒屋ではない。スナックでもない。強いて言うなら「酒場」だ。客は老若男女と幅広く、純粋に酔いを求めてやってくる一人客が断トツに多い。店主のみっちゃんも、もともとは客として、24年前にこの場所に流れ着いた。当時38歳。阪神・淡路大震災の前年のことだった。
「もともと築地のやっちゃば(青果市場)で働いていたの。早朝4時から働いて、昼前には仕事が終わる。その足で下北沢に飲みに来ていた。けど、そんな時間にやっている店なんて、ほとんどなかった。当時、仙台出身のマスターがここでいなりずしや巻きずしを売っていた。だったら、空いている時間で飲み屋をやりたいと思ったのが最初だったな」
それから、みっちゃんは足繁く店に通ったという。半年ほどたったある日、恐る恐る、空いてる時間に店をやりたいとマスターに申し出ると、「じゃあ、やれば」とあっけない返事だった。契約書もなければ、面接もない。全部、口約束。最初のころは、やっちゃばと二足のわらじの生活だったが、しばらくして飲み屋が本業になる。
群衆の中の「孤独」
みっちゃんの居心地の良さは、店主の「無関心」だと常連の一人は言う。それは「人間嫌い」とか「客を無視する」という排除の意味ではない。みっちゃんは、自らの素性について多くを語ろうとはしない。客も同じようにお互いの素性を詮索しない。だから孤独にふける自由がここにはあるのだ。そもそも、我がもの顔で、どやどやとやってくるグループ客はここにはいない。
テレビや映画を手がける映像ディレクター・石崎俊一さん(34)も常連の一人。ここは誰かに連れてきてもらわないとたどりつけない場所だと語る。店の周囲には酔っ払って寝ている人もいれば、カウンターには強面の常連が陣取っている。
「もともと業界の先輩に連れてきてもらったんです。店はお世辞にもきれいだとは言えないし、一見、ここで飲んでいる人は怖かったりする。だから、最初は店の片隅で、飲ませてもらっている感覚でした。そのうち、みっちゃんに顔を覚えてもらって。常連と話せるようになると、こんなに人に優しい場所はないと思うようになったんです」
ここはあらゆる職業人のたまり場だ。革ジャンで決めたリーゼント姿の中年ロッカー。年齢不詳のラジオパーソナリティー。バイト歴30年の遺跡発掘調査の親方とその弟子など・・・・・・。場所柄、駆け出しの舞台俳優やテレビで活躍する有名女優などの芸能人もやってきた。この場所の歴史をたどると闇市に行き着くように、ここに集まる人々も、どこか得体の知れない魅力に溢れている。表通りの飲み屋にこうした風情はない。
みっちゃんは、2018年正月で店じまいすることを決めていた。昨年の8月、この場所にあったトタン屋根の横丁は、この店を残して全て取り壊され、今は更地になっている。人気があるにもかかわらず、なぜ横丁は取り壊されてゆくのだろうか。
「シモキタ村」の誕生
闇市由来の横丁は配給制度が敷かれていた敗戦後の混乱期にさかのぼる。米軍の空襲を逃れた下北沢駅北口には闇市が立ち並び、人でごった返した。当時、下北沢周辺は駅前を除くと田畑ばかりで、近くの農民がお上の目を盗んでここで野菜や米などを売り始めた。米国製ジーンズなど進駐軍の放出物資を扱う者も現れ、こうして「駅前食品市場」は誕生した。60年代になると下北沢は「ショッピングの街」として、沿線に暮らす主婦層を中心に買い物客で賑わう。
商業から文化の街へと変化したのは1970年代。「アメカジ」ブームが巻き起こると、多くの若者が市場に殺到し、お洒落な街「シモキタ」の基礎が作られる。新宿や渋谷などで花開いた演劇、フォーク、ロックなど70年代を代表するカルチャーが、一気に流れ込んだのも同じ時期だ。
みっちゃんのカウンターで出会った歯科医の下平憲治さん(56)は、大学進学を契機に憧れの「シモキタ」にやってきた。初めて降り立った下北沢の駅。下平さんは駅前ビルから見た光景が今でも忘れられないと言う。
「シモキタはジャズの中心地であるアメリカ・ニューオーリンズのような洗練された都会だとばかり思い込んでいました。それが駅の真ん前にはトタン屋根の薄暗いバラック市場。いかがわしいピンク街もあった。ぎょっとしましたよ」
1982年、後にシモキタのランドマークと呼ばれる本多劇場がオープンすると、シモキタは「演劇の街」として雑誌やテレビ、ラジオなどを通じて全国区となる。古着の街としても注目された。ライブハウスやレコード店、古本屋も乱立。
やがてシモキタは、若者が「住みたい街」に挙げる人気の場所として定着する。下平さんは自身を「シモキタ村の住人」と自認し、当時のシモキタそのものが、みっちゃんのような懐の深い街だったと語る。
「夢があっても金がないのが若者。先輩が、後輩の面倒を見るのが当たり前だったんです。だから、この街で育った若者の多くが、大人になって後輩を連れてシモキタに飲みに来る。家賃が高いので、彼らが暮らしているのはたいてい下北沢ではないのですが、ふと思い立って、わざわざやってくるんです」
こうした古い横丁が注目されるようになったのは2000年代に入ってからだ。
「吉田類の酒場放浪記」など、横丁で飲む、食べるという特集が「街歩き」という言葉とともに雑誌やテレビで大人気となる。とくに横丁に敏感に反応したのは若い世代だ。社会デザイン研究者の三浦展氏は自著『横丁の引力』の中でその理由をこう分析する。
「いまの若い世代はあまりお金がないことも、そのひとつの理由である。こうした昭和の街の風景が若い世代にとって『初めて見るのに懐かしい』場所として意識されてるからだろう。横丁の一種のリアルさと濃密さがデジタル化した生活の中で新鮮なものに感じられるのかもしれない」(『横丁の引力』イースト新書)
街をめぐる二つの再開発
下北沢が巨大な道路によって分断される――。
終戦直後、1946年に東京都の優先整備路線として決定され、これまで実施されてこなかった道路計画が持ちあがったのは2006年のことだった。
「補助線街路第54号線および世田谷区画街路第10号線」。通称「補助54号線」は、渋谷区富ケ谷から世田谷区上祖師谷までの延長およそ9キロの新道路を建設する計画だ。この計画が実施されれば、下北沢の中心部を最大幅26メートルの道路が横切ることになる。下平さんは、シモキタに縁のある俳優・リリー・フランキーや漫画家・浦沢直樹らアーティストを巻き込んで反対運動を展開した。合言葉は「Save the 下北沢」だった。
「反対運動というと政治的なにおいがしますが、この時は、シモキタの住人だけでなく、下北沢を愛する全国の人々が協力してくれました。このような反対運動は、全国でも珍しかったと思います」
結局、事業着手に至った道路計画だったが、2011年の世田谷区長選で、下北沢の大型開発に慎重論を唱えた保坂展人氏が当選。2015年の選挙でも保坂氏が再選されたことで状況は一変。下北沢から渋谷に向かう2期工事、下北沢から環七へと向かう3期工事が、2016年から10年間、優先整備路線から外れたことで事実上、この計画は一時凍結となった。
しかし、シモキタを歩けば「補助54号線」建設が、いかに入念に計画されてきた再開発か分かる。商店街は部分的に空き地があったり、ビルそのものが道路を避けるようにして、いびつな形で設計されていたりする。つまり、道路が建設される前提で街が設計されているのだ。「補助54号線」とともに、小田急電鉄主導の「小田急小田原線複々線化事業」も並行して進められている。これは小田急線を横切る「開かずの踏切」による交通渋滞の緩和が目的で、それまで地上にあった下北沢駅は、すでに地下に潜る工事が完了している。
世田谷区によると、二つの再開発に共通するのは「防災対策」の強化だという。つまり下北沢駅周辺は、災害時の避難経路が確保できない。火災時、街中に消防車が立ち入ることが難しい地域なのだ。しかし、複雑に入り組んだ路地こそがシモキタ文化そのものだけに、折り合いをつけるのは難しいと下平さんは語る。
「道路建設に伴って仮に店舗を移転するにも、宅地化が進み、急速に商業地が拡大した下北沢には、移転先の候補となる土地がないんです。それに再開発の話が表沙汰になってからも、この街に出店したい人は後を絶ちません。この10年で家賃が5倍近くになった場所もあります。土地がないから駅前を高層化して商業施設を誘致しても、それが街の新しい魅力となるかといえば、首をかしげざるを得ません」」
みっちゃんのある横丁も「補助54号線」に連なる「区画街路10号線」という道路の建設予定地だ。全国には駅前を中心に再開発に伴って消える横丁もあるが、そもそも横丁が消える理由として、その土地を持つ「地権者」の高齢化と相続の問題がある。今回、この横丁の地権者に直接、話を聞こうと試みたが、接触できたのは3人。うち2人が取材拒否だった。話を聞けたのは80代の高齢者。20年以上前に家族の転勤にともなって下北沢を離れていて、電話での取材となった。
その男性によると、どこで調べたか分からないが、これまで「店舗で商売をさせてほしい」「土地を譲ってもらえないか」などの問い合わせが頻繁にあったという。道路建設に伴い反対運動が展開された時は、「補償金をもらってまで、街を壊すのか」と辛辣な投書をもらったこともある。
「もう、高齢で土地を持っていても仕方がないんです。建物は老朽化し、地震がきたらもたないでしょ。息子もあの土地はいらないと言うんです。家族以外に土地を渡すのも面倒だし、じゃあ、これ(道路建設)をきっかけに売ってしまおうと。横丁の土地は狭い上に権利が複雑で、一人だけが残ると決めても、その他の人に迷惑をかけるだけですから」
見果てぬ夢が転がっている横丁
最終営業日の1月3日が近くなると、店の前は絶えず人だかりができるようになった。明らかに地元の住人で、買い物帰りの高齢の女性は、シャッターが上がった直後にやってきて焼酎を一気に飲み干した。見事な飲みっぷりだった。
「暖簾があって、扉を開けてってお店は、どうしても簡単には入れないでしょう。ここは、『みっちゃん、一杯飲ませて』と言って気軽に寄れるからいい。ここがなくなったら私のような一人暮らしの人間が行くところがなくなって本当に寂しい」
表通りにこうした高齢の女性客を迎え入れてくれる店はない。一人で飲める横丁の酒場は貴重なのである。突然、店の前でギターをつま弾き、歌を歌いだした若い女性がいた。シンガー・ソングライターの宏菜さんは、初めて路上で歌ったのが、この店の軒先だった。
「まだ、ここに来て1年も経っていないけど、感覚的には何年も来ている感じです。もちろん、全員が聴いてくれるわけではなく、途中で帰ってしまう人もいるけど、みっちゃんはいつも、慌てるべからずって、失敗しても優しくフォローしてくれました。中島みゆきの『時代』をみっちゃんとセッションしたのが、私にとって特別な思い出です」
宏菜さんは、この場所での思い出があるからこそ、これからも音楽活動を頑張っていけると胸を張った。シモキタにはまだ「見果てぬ夢」が転がっているのだ。
横丁は「仮設的」で「流動的」な場所
社会学者で『商店街はなぜ滅びるのか』の著者である新雅史(あらた・まさふみ)さんは、もともと闇市由来の横丁は戦争で夫を亡くした戦争未亡人が始めた歴史もあり、地域によっては店主に過去を聞いてはいけないという不文律があるとした上で、働く場所としての横丁に注目する。
「普通、飲食店はある程度の資本と計画がないとできないが、それに比べて横丁は、その場所との縁さえあれば誰でも働くことができる。その意味では横丁の商売は、ビジネスでも、商いでもなく、生業(なりわい)に近い。そもそも店舗が仮設的で、移動しようと思えば、少ないリスクでいつでも移動できる。少なくとも戦後の闇市とは、そういう場所でした。こうした仮設的、流動的な生き方を許してくれる空間が横丁だと思うんです」
横丁を壊して、街を再開発する計画が存在するのは下北沢だけではない。新宿ゴールデン街(新宿区)、渋谷のんべい横丁(渋谷区)、吉祥寺ハモニカ横丁(武蔵野市)。また、近年の「せんべろ」ブームを牽引し、週末には多くの観光客でごったがえす立石仲見世商店街(葛飾区)も例外ではない。しかし、再開発を経た街は「つまらない」ものになる傾向があると新さんは指摘する。それは東日本大震災後の被災地の街づくりにも言える。
「なぜ闇市的な、横丁的なものが自然発生的に生まれないのかと思うんです。行政主導の多額の予算を投下してつくる街は、確かに安心・安全かもしれないけどぜんぜん面白くない。仮に横丁的なものをつくっても、横丁を横丁たらしめる決定的な要素が欠けるんです。それは『人』です。資本や実績、履歴書がなくても働けるのが横丁の魅力。そうでなければ横丁は、ただの飲食街になってしまいます」
東京の街は「震災」「戦災」「オリンピック」によってその姿を変えてきた。そして2020年には再びオリンピックが開催される。
※みっちゃんは、2018年1月3日の最終営業をもって閉店し、今は誰もいない店舗だけがポツリと残されている。
中原一歩(なかはら・いっぽ)
1977年生まれ。ノンフィクションライター。「食と政治」をテーマに雑誌やウェブで執筆している。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』など。最新刊『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』
[写真]
撮影:岡本裕志
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝