「おとなの掟」「華麗なる逆襲」……いずれも椎名林檎が提供した近年のヒット曲、話題曲だ。楽曲提供の他にも、CMソングにアニメの主題歌、リオ五輪閉会式では演出と音楽監督と、音楽に関することならなんでもござれとばかりに活動の場を広げる。音楽活動の原点には、「あの時の女の子」がいるという。(ライター・内田正樹/撮影・笠井爾示/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「オーダーメイド」と「ブス設定」
椎名林檎がシンガー・ソングライターの活動の一方で手掛けてきたのが作家業だ。自らがデビューした1998年には広末涼子に、翌1999年にはともさかりえに楽曲を提供していた。デビュー当初から作家としての才能を買われていたことがわかる。阿久悠や都倉俊一といった、歌謡曲黄金期の作家や、バート・バカラックに憧れるという。
――自らが歌う一方で、作家として他の歌い手に曲を提供することも大事にされていますね。
一番は、誰が歌うかよりも、より多くのお客様が喜んで、元気になって下さることでしょうか。
SMAPに提供させていただいた「華麗なる逆襲」は、自分のコンサートツアーの合間を縫って仕上げました。当時、夫の児玉裕一(映像監督)の元に、その曲のミュージックビデオを監督してほしいとご依頼をいただいたのですが、そのスケジュールは、たまたま私のソロ名義の曲のミュージックビデオの撮影と重なっていました。でも、私から「SMAPの方をやって」と強く頼みました。「喜ぶ人が多い方に力を注いでほしいから」と。
ドラマ「カルテット」のために制作した「おとなの掟」も、毎話、エンディングで流れる松たか子さんたちの歌がすばらしかった。私が歌うよりも、SMAPの皆さんや松さんたちが歌って下さることの方が、日本を、世の中を明るくする効き目が高いですからね。
2015年にSMAPが歌った「華麗なる逆襲」は、シングル週間ランキング1位を獲得。2017年の話題の一作となったドラマ「カルテット」の主題歌「おとなの掟」は、出演する松たか子、満島ひかり、高橋一生、松田龍平によるユニット“Doughnuts Hole”が歌い、主要配信サイトで軒並み週間ランキング1位を獲得した。
――例えばSMAPなら、椎名さんの中の「こんなSMAPが見たい」という欲望がインスピレーションの源となるのでしょうか?
私もそうですが、何よりも彼らのことをお好きなファンの方々が何をご覧になりたいか、ですね。作家業をしていると、提供先のアーティストの方の魅力の全てを詰め込んだような一曲を書いてみたくなります。「華麗なる逆襲」は、そんな野心を込めて書きました。私にとっての彼らの魅力は、笑顔の裏に隠し持つ牙みたいなものです。同じことだと思いますが、児玉監督も「全員が全員、陰陽併せ持つスターだ」という風に話していました。
――SMAPは昨年末、惜しまれながら解散を迎えました。
誰もが知っているアイドルという存在でありながら同時にアウトローな存在でもある。稀有ですからね、惜しいですよね。まあ、諦めていませんけれど。(福岡出身の)私には、SMAPの博多公演を観に行って骨抜きにされるという夢があります。
提供曲は、キーも歌詞も編曲も、必ず歌って下さる方に合わせたオーダーメイドで仕立てています。この方にいま歌っていただくために最もふさわしい和声と旋律と歌詞は何か。それを探す作業は、楽しくもあり、苦しくもあります。
あと、提供曲の場合は、美人やハンサムの設定で書けるのが面白いところです。ほら、最初から私が歌うために書く曲は「ブス設定」ですから。
――「ブス設定」とは?
無粋に思えてあまりお話ししてきませんでしたが、基本的に私が自演する曲は「ブス設定」なんです。例えば造形がキレイな女の子でも、急にブスになる瞬間ってありますよね? 大好きなはずの人を前にした時に限って「あ、いま私ブスなこと言ってるな」みたいな(笑)。でも女の子の親友同士だと、共感があるしその瞬間がたまらなく愛おしかったりもする。デビューからずっと、そんなブス設定の担当を自任してきました。
若手の美人シンガー・ソングライター枠はもう飽和している時代でしたしね。現実味のある描写を追求したいと考えざるを得なかった。まあいまの私なら、自らそんないばらの道をわざわざ選んだりしなかったと思いますよ。若さゆえの勇気だったのでしょう。結局、それで20年もブス道を歩み続けてしまったと思うと何だか感慨深いです(笑)。
ネットの片隅に「あの時の女の子」がいるかもしれない
1998年にシングル「幸福論」でデビューした椎名は、セカンドシングル「歌舞伎町の女王」で一躍注目を浴びた。翌年発売したアルバム「無罪モラトリアム」は100万枚を超える売り上げを記録(現在は170万枚を突破)。椎名が演じた「椎名林檎」というアーティストは多くの同性の熱い支持を得た。
――インターネットはよく見ますか?
見ますよ。スマホでもパソコンからも。Yahoo!知恵袋も「ヤフコメ」もよく見ます。皆さんがどういった事象にどんな感情を抱くのか。そうした筆致のどこかに、「あの時の女の子」が潜んでいるかもしれないので。
――「あの時の女の子」とは?
私が15歳、高校1年生の時に、同じ年の女の子が自殺したという記事を新聞で読んで、大きなショックを受けました。その記事は小さな扱いでしたが、日がたつにつれ、自分の中でどんどん大きな存在になっていきました。
彼女がもし犠牲者だったとしたら、そう仕立ててしまったのは時代? 最終的なきっかけは? 決定打になる言葉があった? 私と彼女では一体何が違ったのか? 無関係に思えなかったのです。自分の表裏というか、その女の子は、いまを生きている自分と抱き合わせの存在のように感じられました。
――なぜ、そこまで強く感じられたのでしょうか?
自分が「命を助けてもらった立場」だと自覚し続けていたということが大きいのかもしれません。自ら命を絶つという発想自体、私のような立場の者にとっては、ご法度中のご法度でしょうから。
その記事を目にして以来、引っ掛かりを覚え、後ろめたさを感じ続けています。ならば自分が生きていく以上、「消えちゃいたい」と思う女の子の気持ちを現在進行形で考え続けたい。明らかに、それがJ-POPの世界へ飛び込もうと決めさせたきっかけでした。
「命を助けてもらった立場」――。1978年11月に生まれた椎名は、生後まもなく先天性食道閉鎖症が発覚。生まれつき食道が途切れているため栄養が摂取できない病気だ。肩甲骨と腹部を開いて食道と胃をつなぐ緊急手術は2日間にわたった。さらに、第二次性徴期に右半身の発育が止まる奇形であることもわかっている。
――ご自身は幼い頃、ピアノやクラシックバレエを習っていましたね。
バレエは母のすすめで10年以上レッスンを受けていましたが、結局は身体のバランスを矯正する痛みを克服できずにやめました。そうして打ち込んできた芸も諦め、学校でも、父や母ともうまくいかない。そんな思春期に、自分一人で責任を取れる場所に思えたのが、譜面の中だけだったんじゃないでしょうか。
いまの私は母親でもあるので、文化の底上げ、特に子どもたちの将来的な素養の底上げについては、思うところが多々あります。
少女の頃の修練が大人になった自分を助けた
少女の頃に積んだ修練が、大人になった時にどれだけ自分のよりどころになったか。自分にも覚えがあるからこそ気になります。いまの時代、子どもたちの憧れの対象は多様化していますよね。でも、例えばある子がピアニストに憧れたとしても、ピアノはいまだに高価で、置ける環境も限られてくる。そんな物理的な事情で、文化的なものに触れる機会を奪われている才能豊かな子どもたちが、まだまだ大勢いると思うのです。コツコツと稽古をするのが得意な日本人なのに。国にとって大きな損失、宝の持ち腐れだとも言えます。
バレエでも日舞でもダンスでもスポーツでも、日頃の修練を行うことができたり、稽古から本番に至るまでの全てをサポートしてくれるような施設があるといい。それこそリオデジャネイロ・オリンピック/パラリンピックの閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーに参加した方々の制作現場に触れられる場所があれば……と夢見ます。振付家のMIKIKO先生やその他の仲間たちとも、いつも議論しています。クリエイションとは、ピンチをチャンスに変えるためにこそあるのですから。
2016年、椎名はリオデジャネイロ・オリンピック/パラリンピック閉会式におけるフラッグハンドオーバーセレモニーの演出と音楽監督を務めた。クリエイターには、椎名の夫でもある映像監督の児玉裕一、Perfumeや星野源「恋ダンス」の振り付けで有名な演出振付家のMIKIKOらが椎名の声かけで集まった。
私たちは一種の飛び道具だったんだと思います。もともともっと別な、名だたるクリエイターの方々がハンドオーバーを手がけられることになっていたと思いますし、オリンピックに関することは、誰が何をやってもディスられるという空気でした。あの時に私たちが考えていたことは、外国人観光客向けで、日本人が誰も使わないような土産物の詰め合わせなどではなく、いまのリアリティーを重んじるべきだということ。あれは取り急ぎTOKYO 2020のCMでしたからね。
――2020年に開催が予定されている東京オリンピックの開会式でまた演出を、という気持ちは?
名前のある人が出れば、その瞬間はバズるでしょうけれど、同じ数のアンチだって生むでしょう。ならばそれよりも、例えば子どもたちにアイデア自体のすべてをまかせたセレモニーが観たい。もちろんプロダクション上は大人が手伝ってもいい。2020年にはしかるべきどなたかが「(五輪開催地としての)二度目の余裕」を形にしてくださるのではないか。そう期待しています。
女の子が人生を謳歌できる世の中に
――ご自身が歌う活動に対して、曲を作ったり演出をしたり、音楽監督を務めたりすることは言わば「裏方」です。「椎名林檎」自身の歌やパフォーマンスをもっとたくさん届けてほしいと思っているファンも多いのでは?
最も「効き目」が強い順から優先して頑張ろうとすると、やはりどうしても裏方仕事が増えがちですね。その分、ライブに来ていただけたら、できるかぎりお客様のお近くまでうかがうつもりでひたむきに取り組みたいです。
新作アルバム「逆輸入〜航空局〜」では、前述のともさかりえ、SMAP、Doughnuts Holeをはじめ、石川さゆり、栗山千明、柴咲コウ、高畑充希らに提供した曲を椎名自らが歌っている。演奏は、80名にも及ぶ日本屈指の演奏家によって、全て新たにレコーディングされた。デビュー20周年を迎える2018年は、3月から約2年半ぶりとなる全国ホールツアーを行う。
「これとこれを使って、こういうものを作って下さい」と材料を渡される仕事というのは、どうしても手間暇がかかります。私は編曲までを含めて作詞・作曲だと考えていますしね。自分が歌う歌でも、誰かが歌って下さる歌でも、一人でも多くの人に心身健やかになっていただくには何が最善の策なのかだけを考えています。
――その原点には、高校1年生の時に出合った新聞記事の「女の子」がいる?
いまも「女の子」という言葉の響きだけで涙が溢れる時があります。女性という生き物は、「勘」で生きていると思うんです。でも少女の頃はまだ知恵も経験も乏しいから、うっかり命を落としてしまいかねない。それをなんとかしたいという思いが、結局いまでも私のものづくりの基礎なんでしょうね。
女の子の味方になる材料をみんなで世の中に溢れさせたい。15歳の女の子全員が「人生、余裕! 楽勝!!」と清々しく言いきれる世の中になればいい。その思いはいまも何ら変わっていません。
突拍子もない格好をした私が「私ってば、ブス!」という瞬間を歌っているのを見たり聞いたりして、さっきまで「もう消えちゃいたい」と思っていた女の子が、「なんかお腹空いたな」とでも考え直してくれたら。クスッとでも笑ってくれたら。それこそがこのお商売における一番のやりがい。私にとって、神様は八百万(やおよろず)ではなく、女の子なんです。
(文中敬称略)
椎名林檎(しいな・りんご)
1978年、福岡県出身。1998年、シングル「幸福論」でデビュー。2004年から2012年にかけては東京事変のメンバーとしても活躍。2009年には芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。2017年2月、TBS系ドラマ「カルテット」主題歌「おとなの掟」が配信シングルとして30万ダウンロードを超えるヒットを記録。4月には“椎名林檎とトータス松本”名義で配信シングル「目抜き通り」を発表。12月6日にセルフカバーアルバム第二弾「逆輸入〜航空局〜」発売。大晦日のNHK紅白歌合戦への出場が決定している。2018年にはデビュー20周年を迎え、3月から全国ホールツアー「ひょっとしてレコ発2018」を開催する。
内田正樹(うちだ・まさき)
1971年東京都出身。編集者、ライター。雑誌「SWITCH」編集長を経て、2011年よりフリーランス。これまでに数々の国内外のアーティストインタビューや、ファッションページのディレクション、コラム執筆などに携わる。「サンデー毎日」に「恋する音楽」を連載中。