森田友希

「おれたちには音楽しかなかった」Suchmosのバックストーリー

8/29(火) 10:08 配信

「懐かしく、新しい!」「全曲、洗練されている」「洋楽しか聴かない人でも聴ける!」。レビューや感想を見ると老若男女、どの層も熱い思いを綴っている。いま音楽ファンの心を捉えて離さないのが6人組のバンドSuchmos(サチモス)だ。自動車のCM曲に起用された昨秋以来、急速に脚光を浴びた。その背景には表層的な音楽ビジネスとは一線を画した、確かな音楽性と長年培ったメンバーの信頼関係があった。Suchmosはどのように生まれ、育ってきたのか。メンバーとプロデューサーが明かした。
(ジャーナリスト・森健、ノンフィクションライター・三宅玲子 /Yahoo!ニュース 特集編集部)

ジャンルレスで玄人の腕

夕方、気分を切り替えるためにスマートフォンでJ-WAVEにチューニングした。偶然流れてきた曲に釘付けになった。ネットで検索してみると、20代前半のバンドとわかり、驚愕した。こんなサウンドを日本語でやるバンドが若い世代から出てきたなんて──。

「すぐに売り場に電話して『イニシャル(初回出荷)何枚ある? すぐに追加して』って指示しました」

代官山T-SITEイベントマネージャーの前川愛(47)が2015年 の夏を振り返った。

バンド名はSuchmos(サチモス)。20代前半の6人組だった。

代官山T-SITEのCD売り場。7月上旬、シングル「FIRST CHOICE LAST STANCE」の発売に合わせて特設コーナーがつくられた(撮影:田川基成)

昨秋、本田技研工業の乗用車のCMに「STAY TUNE」という曲が起用されると、Suchmosの名は一気に広がった。

ジャズ、ソウル、ロックなど幅広いジャンルを聴き込み、咀嚼し、独自の音楽をつくり出したSuchmosは、2015年4月にデビュー。プレイヤーそれぞれの腕の玄人ぶりとあわせて「ジャンルレス」と評される。10〜20代はもちろん、洋楽に浸かって青春時代を過ごした40代以上の世代まで、ファンの年齢層は厚い。

今年1月にリリースしたセカンドアルバム「THE KIDS」は、オリコン2017年上半期のアルバムランキングで10位を記録。この夏はアップルミュージックのCMにも起用された。

シングルが発売された時期の渋谷スクランブル交差点のビジョン(撮影:田川基成)

彼らを発掘し、支えてきた株式会社スペースシャワーネットワークのプロデューサー、金子悟(38)が言う。

「ロックやソウルやジャズがミックスされ、しかも、非常に高いレベルでの演奏力もある。それでいてどこかポップ。そんな彼らは出会ったときから個が立っていました」

メンバー6人のうち5人が横浜市や茅ケ崎市など神奈川出身。ライブでも「地元に捧げる」と公言するほど地元愛を表現しているが、実際にメンバーの多くは互いに10年、20年という長いつきあいがある。

そして、そのつきあいの中に、Suchmosというバンドの核が潜んでいた。

古い友人関係が母体

「おれたち、音楽でやってかないともう、どうしようもなくて。音楽やってなかったら、いったい何してたんだろうって思う」

ベースのHSU(スー 小杉隼太・28)が、アイスコーヒーを手に言った。

ベース・HSU(スー)(撮影:森田友希)

カフェのテラスで、ボーカル・YONCE(ヨンス 河西洋介・26)が煙草に火をつけた。肩越しに広がる茅ケ崎の海から波の音が聞こえる。

彼らの関係の母体になっているのが、昔ながらの友人関係だ。

HSUとギターのTAIKING(タイキング 戸塚泰貴・27)は母親同士が友人で、TAIKINGとドラムスのOK(オーケー 大原健人・27)は幼稚園の頃から友人。HSUとTAIKINGは小学校が同じ。DJのKCEE(ケーシー 大原魁生・24)は、OKの弟。キーボードのTAIHEI(櫻打泰平・25)はHSUが通った音楽大学の後輩という関係である。

そして、OKとYONCEは高校時代にバンド活動で知り合っていた。

彼らはSuchmos以前にもバンドを組んでおり、それが音楽活動への第一歩だった。

左からベースのHSU、ドラムスのOK、ボーカルのYONCE。メンバーのバンド歴はそれぞれ10年近い(撮影:森田友希)

最初のバンドは2007年、ベースのHSUとドラムスのOK、ギターのTAIKING(当時はボーカル)、もうひとりのギタリストと4人でつくった「Ivory」というロックバンド。まだ高校生だった。彼らはアマチュアの世界ですぐに頭角を現し、2009年には楽器店が主催するバンドコンテストで全国大会に出場するほどの実力をつけた。

そんな流れで彼らは早くも音楽プロダクションに所属した。

「高校野球で言えば、ドラフトのためにどこかの監督が見に来てる。それだけで満足してる感じでした」

HSUが振り返る。プロダクションの所属は二十歳前後の彼らにとって、プロデビューへの輝かしい道に思えた。だが、実際にはそうではなかった。

(撮影:森田友希)

プロダクションへの所属はデビューへの道筋を示すわけでも、彼らの音楽性を伸ばすわけでもなかった。そこで会った大人たちの興味は「いい音楽」でも「ロックのマインド」でもなく、「何枚売れるか」。商業的な「売れ筋」の型にはまることが暗黙のルールとなっていた。

見回せば、プロをめざす同世代のバンドは上手に大人たちと折り合いをつけようとしていた。HSUが早口で言う。

「このライン、要は、売れ筋のバンドって、サラリーマンでもうまくやっていける人たち。ある意味、真面目だから、たぶん音楽以外のことでも、それなりにがんばれるんですよ」   

飼い殺し状態で、何も生み出そうとしない大人の不誠実な態度に反発したのはOKだった。

ドラムス・OK(オーケー)(撮影:森田友希)

「当時おれ、すぐ不機嫌になる性格だったんですよ。で、どいつに対しても『くたばっちまえ!』みたいな態度で。それで目についたんです」

すると「制裁」を受けた。「ドラム、変えた方がいいんじゃない?」とプロダクションの社員がメンバーにささやき、OKは脱退することになった。ほどなくHSUもやる気を失い、結果的にバンドは空中分解することになった。OK が言う 。

「おれたち、Suchmosになる前に音楽業界の勉強を済ませちゃってたんすよ」

一方、同じ神奈川・茅ケ崎にもロックで生きていこうと決めていた若者がいた。ボーカルのYONCEである。

YONCEの地元、茅ケ崎の海岸(撮影:編集部)

茅ケ崎で反発する男

「同調圧力への反発ですね。決められたことをやりなさい的なことに対して、疑問を抱いてました」

そうYONCEは音楽活動を始めた頃のことを振り返る。

YONCEは、中2でバンドに目覚め、2008年、高2の冬にロックバンド「OLD JOE」を結成。バンドマンとして食べていくことを決意し、ライブに打ち込んでいた。

ボーカル・YONCE(ヨンス)(撮影:森田友希)

「当時、藤沢のライブハウスをたまり場にしていて。そこの奴らは(レッド・)ツェッペリンとか(ローリング・)ストーンズとかの話ができて、そのうちにバンドを結成したんです。そんな単純な経緯でしたね」

そんなYONCEとOLD JOEを、2009年頃からドラムスのOKはライブハウスや出演した学園祭などで見ていた。

Ivoryから離れてフラフラしていた時期に、OKはYONCE とバンドについて話し込んだ。反骨的な姿勢が合うことを発見したOKは、漠然と「YONCEとバンドやりてえなあ」と 思った。

「音楽に救われた」「音楽の力を信じる」と3人が言った(撮影:森田友希)

バンドの分解から、約3年。HSUは音大のジャズ専攻科に進学し、ベースに打ち込んでいた。OKもHSUの影響を受けて音大に進むと、HSUと一緒に音大仲間の家で酒を飲みながら音楽を聴く時間が重なっていった。

そんな中で、再びバンドをやる、という話に展開していった。

2013年1月、HSUとOKは、IvoryのときのギタリストとSuchmosを組んだ。ボーカルとして声をかけていたのが、まだOLD JOEの一員だったYONCEだった。SuchmosとしてはじめてHSUがつくった「Miree」という曲を持ってスタジオに入った。

デビューから2年半で、ミニアルバム3枚、アルバム2枚、シングル1枚をリリースした(撮影:森田友希)

YONCEはOKに譜面を渡され、新鮮な印象をもったという。

「最終的にはOLD JOEを辞めてSuchmos一本でやっていく。その葛藤はあったけど、Suchmosに加わるのは直感だったと思う。『Miree』をはじめて聴いたとき、『こういう方向性のカッコいい曲はOLD JOEじゃできないよな』と思った。ぜひ歌ってみたいと思った」

HSUが続ける。

「オレはYONCEのステージを見て漠然と、こいつはこういう曲を歌ったらおもしろくなるっていうビジョンが見えてた。だから最初につくった『Miree』はYONCEに絶対マッチすると思ってたし、その通りだったよね」

同じ頃、音楽業界に苛立ちを感じているプロデューサーが東京にいた。スペースシャワーネットワークの金子悟である。

7月、新曲のプロモーションで、原宿や渋谷のポスター広告が広く貼られた(提供:スペースシャワーネットワーク)

苛立っていたプロデューサー

「同じような『売れ線』の音楽とフェスばかり。崩壊した音楽業界で迷走していて、いろんなアイディアを形にしても結果が出せなくて。悩んでました」

金子はメンバーよりもひと回り上の世代だ。中学時代から洋楽を聴き始め、20代はロンドンを中心にヨーロッパを放浪。帰国してDJや音楽イベントの企画をしていたとき、パルコから声がかかる。2006年に同社音楽事業部でバンドの現場マネジャーになったが、量産と消費を繰り返す「商業ロック」が常識となった業界に苛立ちを溜め込んでいた。そして2013年、金子はスペースシャワーネットワークに移った。

そんなときに偶然出会ったのがSuchmosだった。

プロデューサー・金子悟(撮影:森田友希)

2013年秋、 新人発掘に下北沢のライブハウスを訪れると、目当てのバンドのリハーサル時間が入れ替わっていた。そこで金子はたまたまSuchmosのリハーサルを見ることになった。

照明や映像を流すタイミングに細かく注文をつけ、いかにも生意気な態度だが、音楽は洗練されている。Suchmosは2日間その音が耳から離れないほどのインパクトを金子に残した。横浜みなとみらいの頭文字をとった「YMM」という曲の原型だった。

「うまいなあと思いました。 それと、YONCEの声がすごく魅力的でした」

それをきっかけに、Suchmosのライブに通い始めた。だが、すぐに声はかけなかった。じっくりとライブを聴き、彼らの振る舞いを見て、帰る。それを繰り返した。はじめて声をかけたのは、通って4回目、年末のオールナイトライブだった。

「どこかと契約をしているのかを聞きました。あと、Suchmosをすごくいいと思ってることを伝えました」

その時点でSuchmosはどの事務所とも契約をしていなかったが、だからといって、その夜、金子はビジネスの提案を持ち出さなかった。

対するSuchmosも、金子を警戒していた。

「お互いシャイボーイみたいな感じだったよね」

とYONCEが笑って振り返る。

(撮影:森田友希)

金子がいきなりビジネスの話をしなかったのは考えがあった。

「これまで、若いバンドが中途半端に囲われてダメになっていくのを見ていました。自分の中で彼らの音楽を展開するストーリーが描けないのに声をかけるのはダメだと思ってました」

金子はその後もライブに通い、音楽の話で盛り上がり、アドバイスをする、そんな「好意は示すが告白はしない」状態を1年ほど続けた。

そして2014年の終わり、はじめて声をかけてから1年後、金子はようやく4人と4曲入りEP「Essence」の制作に取り組んだ。この時点ではEP単発での契約。それがSuchmosのプロデビューだった。

ただし、そのとき、Suchmosは分岐点にもいた。次のフルアルバム制作に際して、メンバー同士の方向性の違いに直面していたからだ。

(撮影:森田友希)

方向性の違いと別れ

「アンダーグラウンドな方向をめざしたい彼と、もっとメジャーな方向で闘っていきたいおれらとで、表現に違いが生まれてきてた」

そうOKが表現したのが、Ivoryから一緒にやってきたギタリストのことだった。EP「Essence」をつくっているときに、プロとして活動していく方向性の違いを感じた。

そのときのメンバー3人の決断を、金子は「大変だったと思います」と思い返した。

「一緒にやってきた仲間と別れる。その決断は彼らにとっても覚悟があったと思いますね」

そして、フルアルバム「THE BAY」レコーディングの直前、高校時代から一緒だったギタリストが脱退した。

ややもすれば、バンドは崩壊する可能性がある局面だったが、HSU、OK、YONCEの3人は大きな方向転換をする。新しい仲間を3人、迎え入れることにしたのである。HSUの大学での後輩TAIHEIをキーボード、OKの弟KCEEをDJとして招くとともに、以前のバンドではボーカルだったTAIKINGをギターとして再び呼び寄せた。KCEEは、Suchmosが2014年に「Pacific」という曲でMVをつくったときの映像ディレクターで、TAIHEIはHSUと大学で別の音楽活動をともにしていた。それぞれ方向性が一致していることがわかっている仲間だった。

横浜みなとみらい地区。「YMM」という曲名は、当時この付近で遊んでいたことからつけられたという(撮影:編集部)

はじめて6人でセッションしたのは、横浜駅に近いスタジオ。そこで演奏してみたのが、金子も最初に衝撃を受けた曲「YMM」だった。それは音楽をやってきた6人にとっても、特別な瞬間だったという。

そのときの興奮を彼らはこう感慨を込めて言う。

「フィーリングがよすぎて、これは優勝でーす! みたいな」

そうOKが笑い、YONCEはじっくりと思い返した。

「6人ではじめてスタジオに入ってから『THE BAY』のレコーディングで1〜2カ月。この期間にバンドの確信を深めていくところがあった」

このときの一体感こそがSuchmosの誕生だった。

2015年7月、ファーストアルバム「THE BAY」発売。このとき、スペースシャワーネットワークと正式にマネジメント契約を交わした。

「はじめて自分たちの頭の中にあるサウンドを納得もってできてるって思った」

そうYONCEが言うと、HSUが続ける。

「このメンバーになってからは、何の悩みもなく音楽やれてるんですよ」

作品ができあがってからは、今度はプロデューサーである金子の出番だった。

プロモーションにあたり、金子はあえて音楽業界や音楽媒体を避けて、スタイリスト、アパレルのメディア担当者、セレクトショップの店長など、感性が豊かで発信力のある人たちに「和製ジャミロクワイ」というコピーを添えてプロモーション盤を配った。9月、渋谷のライブハウスのチケットが2週間で完売したとき、金子は確かな手応えを感じた。

(撮影:森田友希)

音楽と人とのつながりを大事にしたい

渋谷の事務所で、金子がテーブルにSuchmosのCDと限定盤レコードを広げた。コストはかさむが、CDケースはプラスチックではなく、紙でジャケットをつくる。金子は部屋にCDやレコードジャケットを飾ることがステータスだった最後の世代だ。

「僕、思うんですよね。音楽が生活の一部としてあって、忘れられないジャケ買いとか、思い入れがある。そんな音楽と人とのつながりを大事にしたいなって」

金子とSuchmosの偶然の出会いから、この秋で4年になる。

今年4月にはソニーミュージックレーベルズと提携して自主レーベル「F.C.L.S.」を立ち上げた。すでに金子のノートには2020年までの行程表が記されており、今後はアジアツアー、横浜スタジアムライブを目指すという。

7月2日、日比谷野外音楽堂にて。多くの観客がYONCEの歌に合わせて口ずさんだ(撮影:Shun Komiyama)

この1年で、6人は音楽に集中できる生活になった。収入も増えた。それでも、OKは「カネのことはあまり気にしていない」と素っ気ない。

「大事なのは、ちゃんと自分たちの音楽ができるかどうか。あと、よくわからない自信。それがあればべつにいい」と言う。

そう突き放す言葉には、彼らがアマチュアだった頃に見た「何枚売れるか」しか話さない大人への嫌悪は消えていない。

「音楽をやっていくことだけには自信がある。たとえビジネスだとしてもおれたちがいい音楽をつくることが、いちばん大事なことだから」

チケットは瞬時に売り切れとなった(撮影:編集部)

7月2日、日比谷野外音楽堂は立ち見席まで含め3000人近くでぎっしり埋まっていた。

1曲目の「YMM」に始まり、アンコールには新曲の「OVERSTAND」を演奏した。合計2時間、観客は6人の紡ぎ出す音の波に呑み込まれていた。

YONCEは最後の曲を歌う直前、観客に向けてこう語っていた。

「おれは変わっていく勇気がほしい。ここにいる人たちは変わっていく勇気がほしい人たちだと思う」

ファンの笑顔や涙ぐむ顔を確認した金子は、「客席の最後列まで、Suchmosの音楽が届いている」と感じた。野音の外では会場に入れなかった人たちが集い、漏れてビルに反響する音に耳を澄ませていた。そして、YONCEは叫んでいた。

「またやろうよ。気持ちいい夜を」

(撮影:Shun Komiyama)

(撮影:編集部)

森健(もり・けん)
1968年東京都生まれ。ジャーナリスト。2012年、『つなみ――被災地の子どもたちの作文集』で大宅壮一ノンフィクション賞、2015年『小倉昌男 祈りと経営』で小学館ノンフィクション大賞を受賞。2017年同書で第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。公式サイト

三宅玲子(みやけ・れいこ)
1967年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。「人物と世の中」をテーマに取材。2009年〜2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「Billion Beats」運営。

[写真] 撮影:森田友希、田川基成
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝

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