空に次々とロケットが打ち上がる。天に昇る龍にその姿が似ていることから「龍勢(りゅうせい)」と名付けられた。それは戦国時代の狼煙(のろし)の風習と技法を源流とする「農民ロケット」だ。かつては全国に30カ所以上あった龍勢も現在は4カ所を残すのみ。そのうちのひとつ、秩父市・吉田の龍勢祭は400年の歴史を誇る。龍勢が打ち上がるその日までの人々の姿を追った。
(作家・伊勢華子/Yahoo!ニュース編集部)
花火でなくロケット
鉛色の空に、白い煙の線がうねるように伸びていく。青空を覆ったぶ厚い雨雲。それに戦いを挑むように勇ましい轟音を上げて宙を昇っていく。雲に飲み込まれてその姿が空から消える。地上で9万の人が固唾を飲んで行方を見守っている。天地人。すべてがひとつになる。
10月。秩父・吉田の椋(むく)神社で行われる龍勢祭の日、27の流派に分かれた町民の有志たちが、順番に龍勢を打ち上げる。境内に並ぶたくさんの出店と行き交う人々の盛況ぶりは、よくある花火大会の景色と変わらない。違うのは龍勢が「花火」ではないというところである。火薬の一瞬の爆発によって上がる花火と違って、龍勢は火薬を徐々に燃焼させながら上がっていく。構造上は宇宙に飛び立つロケットと同じである。
イタリア語で小さな糸巻棒(rocchetta)に形が似ていることから呼び名が伝わった「ロケット」。確かに矢柄(青竹)のついた全長18メートルもの龍勢が打ち上がる姿は、巨大な糸巻棒が宇宙に向かっていくようにも見える。
龍勢が消えた曇り空を、人々はまだずっと見つめている。
しばらくすると遠い視界の端から、真っ赤な塊がゆっくりと落ちてくる。龍勢が地上に戻ってきた。
「ほら! あそこ!」。小さな女の子が空を指差すと、同時に一斉に大きな歓声が芦田山の空に響く。塊が開いて大きなパラシュートが飛び出す。すると天まで導く役目を終えた矢柄が拍手の中ゆらゆらと降りてくる。それを追うように唐傘がふたつ、みっつと顔を出した。打ち上がる時の轟音とは正反対の和やかな空気が人々を包む。
子どもの頃に見た強烈な記憶
日本各地に30カ所以上あった龍勢は、流星、龍生、龍星など、地域ごとに呼び名も少しずつ違った。今では吉田の他に、静岡の朝比奈と草薙、滋賀の米原の3カ所を残すのみとなった。休止に至った理由は、その日の気流に乗って地上に降りてくる龍勢に対し、観客への安全が十分に保証できないという点が大きい。
地元出身で地域伝統文化を研究する「野外調査研究所」の吉川國男(79)は言う。「人が集まるので当然ですが……。技と知恵を駆使して龍勢を上げながら強くなる地域の繋がりも、大事なんですけどねえ」
吉田の龍勢も、1964(昭和39)年から1971(昭和46)年まで休止した。火薬と交通の規制の厳しさに加え、離農や出稼ぎで、町を離れる者が後を絶たなかった。しかし1972(昭和47)年に龍勢打ち上げの希望を村中に募ってみると、27本もの申し込みがあり復活を果たした。空白の時間を経ても、目と耳に焼きついた龍勢を吉田で生まれ育った若者たちは忘れてはいなかった。
龍勢から遠く離れて
カン! カン! カン! 普段は人が寄りつくことのない小さな作業場から木槌の音が聞こえてくると、吉田に暮らす人々は、夏の終わりがきたことを知る。
龍勢の作業場は推進力となる火薬の配合と、詰め込みをするための重要な場所である。山火事で建物が燃えて火薬に引火しないよう、壁はコンクリート張りで電気も引かれていない。屋根は万一の爆発に備えて簡単に吹き飛ぶよう軽い素材でできている。
竹内定男(60)は27の流派のひとつ「愛火雲流(あいかうんりゅう)」の棟梁である。少し癖のある髪と日焼けした顔は、山林で暮らす男より漁師に見える。
「イーチ! ニーィ! サァーン!」。男たちの太いかけ声に合わせて、筒に詰めた火薬をより強く打ち固めるための木槌の音が響く。「おい息、もっと合わせろ!」。竹内が叫ぶ。
松の木をくり抜いて作った全長70センチの筒を二人の男がしっかりと支えている。向かい合った二人が交互に木槌を振り下ろす。火薬の中に含まれた空気がなくなるまで繰り返し打つことで仕上げられていく。
「火薬が扱える18歳になると、男はどこかの流派に入る。どこに入るかは自分が決めていい。俺も18からやってるけど元は他の流派にいた。で、いつかは自分の流派を作って龍勢を上げようって」(竹内)
新流派の設立は基本認められていない。悩んだあげく竹内は所属していた流派を辞めた。
「そりゃ辛かった。龍勢の音も聞きたくなくて、祭の日は遠くまで仕事に出た」
1998(平成10)年にひとつの流派が辞めた。龍勢から離れて7年待った42歳の竹内に流派の設立が許された。龍勢が好きでたまらないという蓄積された思いを込めて「愛火雲流」と名付けた。
愛火雲流には現在26歳から63歳まで17人のメンバーがいる。職種は大工である竹内の他に、塗装屋、瓦屋など。建設関係が多いのは竹内が最初に声をかけたのが自分の仕事仲間たちだったからである。
「仕事で忙しいとか、金もらえるわけでもねえとか言うのもいて、誰もが入るわけじゃないけど、それでも皆どっかしら龍勢の事だけは頭から離れない。正月みたいに親戚や、遠くで暮らす同級生たちも帰って来るし」。竹内は打たれ続ける筒から目を離すことなく話す。
図面のないロケット
「おっめえ! 遅せえじゃねえか」。竹内の声が飛んだ先に、入ってまだ3年の強矢恭介(27)が、ペットボトルのお茶やジュースの入った袋を両手に抱えて走って来た。妻の出産予定日。陣痛待ちの妻を家に残して車を飛ばして来た。「まだ生まれそうにないんで。だ、大丈夫です」
現場で見聞きすることで人から人へ伝えられてきた龍勢の技術。若者たちにとって先達たちが、いつ何を教えるのか目と耳を集中していなければならない。中でも火薬の詰め込みは抜ける事のできない重要な一日である。
竹内の息子の裕(32)は、父親や兄弟と同じ流派に入りたくないという友達もいる中、あえて父親のいる流派を選んだ。仕事も父親と同じ大工である。
「まぁ、自由と言って行きたくても、他所(よそ)には入れてもらえないっス。オヤジが流派の一員ならともかく。僕の場合、棟梁の息子ですから」
火薬の詰め込みをしたい。流派に入れて欲しかった17歳の裕は、ひとり作業場の外から中の様子を覗き見するしかなかった。中に入るには年がひとつ足りなかった。「やっぱ、カッコよかったっスよ」
いかに高く、そして勇ましく龍勢を上げるかを熱く語っている父の背中。その姿を裕は目に焼きつけた。そして、そんな父親が打ち合わせの宴席となると人の皿やコップが空いていないか、細かく目を配っている事も。
「龍勢の図面は棟梁の頭ん中にあるだけ。俺らはそれを聞きながら松や竹、火薬と向き合う。意見が分かれて言い合う事はしょっちゅうだけど、棟梁がこうすんべって決めたら全員黙って従いますね」(裕)
すべての火薬の詰め込み作業が終わると、最後に筒の底に噴射口となる穴を開ける。
研究者たちのリベンジ
龍勢の技術にいち早く注目したのは、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究者たちだった。
1996(平成8)年春、「宇宙技術および科学の国際シンポジウム」で「龍勢(流星)」が展示紹介され、秋には「国際火工品セミナー」で研究者・久保園晃が「日本の農民ロケット」と題しその構造や技術について述べ、米国の研究者らから称賛を受けた。
同じく研究者の小口美津夫は宇宙に飛び立つロケットと構造を同じくする龍勢に惚れ込み、自ら流派の一員となって龍勢造りに参加した。
吉田龍勢保存会の長谷川清美は言う。「小口先生は研究者仲間にも声をかけて参加してくださったのですが、『難しいなあ』と言って苦労なさっていました」。設計図もなく人間の感覚で作り上げる龍勢をデータ化することはできなかった。
小口ら「ロケットのプロたち」の龍勢の結果は、1年目、2年目は上がることなく櫓(やぐら)で火薬筒が爆発するいわゆる「筒っぱね」が起きて失敗に終わった。小口らは燃え上がる龍勢を呆然と眺めるしかなかった。自分たちの龍勢がしっかり空に上がるのを見届けるまでの3年間、研究者たちは龍勢祭に通い続けた。
絆が上げる龍勢
竹内の自宅には自前の龍勢小屋がある。飾りとなるパラシュートの和紙を染めて張り合わせたり、唐傘に砂袋をつけたりする場所である。作業後は仲間たちとのコミュニケーションの場になる。
並べられた長テーブルには、竹内の妻・真紀子が作った煮物や漬け物が並んだ。鮭や鶏肉の入った鍋。猟師の資格をもつ息子の裕が獲った鹿肉もそこに加わった。近所の人からの大皿の刺身盛の差し入れには、火薬の詰め込みが終わった事への祝福と労いの思いが込められていた。副棟梁である塗装屋の近藤厚芳(54)がほっとした顔でビールを口にする。
「子どもが小っちぇ頃は風呂入れるのも嫁さん一人じゃ大変だから、帰って手伝ってやんなきゃいけねえと思うし。子どもが悪さして呼び出されたら、すぐに謝りに行かなきゃいけねえとも思う。いい大人が龍勢で遊んでるように見えても、火薬詰めてたらもうちょっとだけ待ってくれ……。そう思いながらみんなやってきたんだ」
次の作業での目標や他の流派の動きなど、龍勢を通して男たちの身振りを交えた会話が続く。
「仕事のねえ奴がいたら、どっか働けるとこないかって聞いて回ってそいつが食ってけるようにする。そうしなきゃ田舎なんて回っていけねえ」(近藤)
数秒間に込める思い
10月9日、龍勢祭。龍勢の導火線に火を点す時が近づいてきた。
クジ引きによって1発か2発を打ち上げることができる龍勢。今年クジを外した愛火雲流を失敗できないという緊張感が覆う。「こん時ばかりは、ちいと吐き気がする」。流派で一番体の大きな電気屋の酒井孝郎(35)が強ばった表情で腹を押さえている。
その日、男たちは朝5時に龍勢小屋にやって来ると、神棚に手を合わせ盃を交わした。
打ち上げの準備が終わると副棟梁の近藤が全体を見渡すために、駆け足で観客のいる桟敷席へと走って戻る。棟梁の竹内も神社境内に設置された櫓に立ち、観衆と一緒に点火の瞬間を待っていた。龍勢を設置するために櫓に上がった裕たちが降りてくると、龍勢は点火を待つだけとなる。
雨は上がったものの、まだ灰色の空が天を覆っていた。係員によって龍勢の導火線に火が点けられる。
「行け!」
打ち上げ時刻の9時25分。男たちの祈るような大声が打ち上げ櫓に木魂(こだま)した。
400年途絶えない、その理由
ズッドーーーン。白煙が真っ直ぐに昇って行く。
夕方になっても続く他の流派の龍勢を、裕は櫓から遠く離れた桟敷席で眺めていた。龍勢が雲に隠れると目で追うのを止めて、焦げかけの七輪の肉を箸でくるりと裏返した。周りでは小さな子どもたちが出店で買ってもらったお面をかぶって戯(じゃ)れ合っている。奥では笑顔で酒を飲み交わす竹内の姿があった。
血の繋がった者と繋がっていない者とが世代を超えて、天を貫く農民ロケット・龍勢を打ち上げ、そして見守る。遊んでいるように見える子どもたちにも、この日の30発の龍勢が、体感としてしっかりと刻み込まれる。自然の下、これほど言葉や理屈抜きに愛郷心を伝える手段はない。
近藤が朝上げた自分たちの龍勢を振り返って自賛する。
「なんの迷いもなく。素直に上がっていったもんなあ」
その言葉どおり愛火雲流の龍勢は見事な成功をおさめた。着火から打ち上げの頂点まで7秒半。ぶ厚い雲の中に姿を消した赤いパラシュートもバッと雲から顔を出して開いた。芦田山の空を舞った赤い唐傘。その赤は、還暦になる棟梁へ贈る、龍勢師たちの小さなプレゼントだった。
伊勢華子(いせ・はなこ)
作家。東京都出身。学習院大学卒業、同大学院修士課程修了。著書に『健脚商売–競輪学校女子一期生24時』、『サンカクノニホン−6852の日本島物語』、『「たからもの」って何ですか』など。
[写真]
撮影:幸田大地
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝