東京・山谷地区は、大阪の釜ケ崎、横浜の寿町と並ぶ労働者の街だった。1960年代に1万5000人がひしめき合った山谷はいま、「都市型限界集落」と呼ばれるほど高齢化した。一方では、しゃれたゲストハウスも増え、国際化が進む。宣教師として来日したカナダ人のルボ・ジャンさん(74)はここで40年近く、生活困窮者らを見守ってきた。その目に映った山谷の人々と街の変遷、そして日本とは。(文・写真:後藤勝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
NPO代表として多くの人を支援
JRや地下鉄が交わる南千住駅から南へ10分ほど歩くと、漫画「あしたのジョー」で有名な泪橋交差点に着く。さらに路地に入ると、いつも男たちが集まっている一角がある。建物には「山友会」「クリニック」という古い看板。たいていジャンさんもここにいる。
建物のシャッターが開くのは毎朝10時ごろ。持てるだけの荷物を抱えた人が行列をつくる。その人たちにお茶や食事を提供したり、無料クリニックに案内したり。それがNPO法人・山友会の役割だ。
ある取材の朝、ジャンさんは1人のホームレスに声を掛けていた。
「山口さん、おはよう。元気?」
「あ、ジャンさん、おはようございます」
「今日も飯を食っていきなよ。上野から自転車で来たんでしょ? ご苦労さま。無理しないようにね。おれと同じように年なんだから。おれより先に死なないでよ。葬式が大変だからさ!」
いつものようにジャンさんが冗談を言い、周りの人がつられて笑った。
山友会代表でもあるジャンさんは言う。
「ホームレスの人、山谷で暮らすおじさんたちを、僕は必ず名前で呼ぶんだ。人間一人ひとり、名前を持っているでしょ? 彼らは社会から無視されていると感じてきたから、人として認めてあげることが大切なんだ。孤独って、とてもつらいんだよ」
ジャンさん自身、かつては孤独の中にいたという。
1972年、27歳の時に来日し、世田谷区の教会に赴任した。ところが、教会関係者とうまくいかず、日本語学校でも友だちができない。
「それから3年ぐらい、宿舎に引きこもって、人との関わりを避けて過ごしていたね」
宿舎を出て、土日は教会活動、平日は中古車販売のセールスマンとして働いた。
「生活も大変だったから、働いて、習慣とか文化とか、勉強しようと思った。でも、日本語がよく分からなくて、毎日怒られた。孤独だったよ。あのころは『外人』というだけで差別。仕事でも電車でもレストランでも」
その後、中古車販売会社が倒産し、喫茶店などのアルバイトで食いつなぐ生活になってしまう。
もう故国に帰ろうか。そんなことを考えているとき、知人に「山谷でボランティアしないか?」と誘われた。1984年、医師やカトリック教徒たちが、山友会を設立し、路上生活者のための無料診療所を開設した頃である。
そのときから今日まで、ジャンさんは山谷を離れなかった。
高度経済成長で「労働者の街」に
山谷(さんや)とは、台東区と荒川区にまたがる昔の地名だ。江戸時代には安宿の宿場町として栄え、明治時代には多くの日雇い労働者が山谷に移り住んだ。ところが、戦時中の東京大空襲で一帯は焼失。敗戦後は被災者や孤児、外地からの引き揚げ者であふれた。
そこで行政は山谷の旅館主に旧日本軍のテントやベッドを払い下げ、住居困窮者の収容を依頼した。一つのテントに10人ほどを詰め込む方式だったという。やがてテントは簡素な板張りの小屋に変わり、高度経済成長が始まる1950年代半ばになると、仕事を求めて全国から出稼ぎ労働者や若者が集まった。
いま、山谷で暮らす高齢者には、高度経済成長の時代に地方から来た人が少なくない。78歳の「横田さん」もその一人。1960年代の前半、千葉県から来た。
「当時は外に出ると、いつでも手配師から声を掛けられたよ。建築現場の仕事はたっぷりあった。日当は当時で1800円ぐらいだったかな。お金には困らなかったね。その日の宿代だけ残して、あとは飲み食いして」
東京タワーは1958年に完成したばかりで、首都高や東海道新幹線の建設も急ピッチで進んでいた。1964年の東京オリンピックも迫り、力仕事はいくらでもあった。山谷では当時、220軒以上の簡易宿泊所があり、1万5000人以上が生活していたという。
一方で、現場の労働環境は劣悪で、仕事は危険だった。高所の作業でも命綱はなく、落下も絶えない。それなのに、仕事をもらえなくなることを恐れ、事故で指が潰れても働く者がいたという。日当は3割ほどピンハネ。理不尽だと思っても、文句を言えば仕事がなくなる。待遇改善を求めて、労働者や支援者らが路上で抗議行動などを繰り返し、警官隊と衝突することも珍しくなかった。
横田さんの人生は、40代半ばに暗転した。
「建築現場で事故に遭って10メートルぐらい落っこちた。命綱? してなかった。入院したけど、完治するまで診てくれなくてね。途中で(病院を)出されちゃった。保険もなかったからしょうがないね。それから腰が痛くてね。今でも杖をついてゆっくり歩くのがやっとだね」
横田さんのような労働者に向けて、ジャンさんは数え切れないほどの手を差し伸べてきた。
ジャンさんが言う。
「人ってね、誰でも失敗して、どん底に落ちる時もあるんだ。人に騙されたり、裏切られたりしてね。生きるのが嫌になる。そんなとき、ここに来て、お茶を飲んで、少しでも話ができればいい。人生はやり直せるんだ、と。どん底に落ちた人が、人生をやり直す場所になればいい。ここがね」
バブル崩壊でホームレスになる人が急増
労働者であふれた山谷もすっかり変わった。転換点は、1990年代前半のバブル崩壊。建設・土木の仕事が急減し、日当も下がった。さらに2000年ごろになると、簡易宿泊所に泊まれなくなり、ホームレスになる人が急増した。
ジャンさんはその変遷も目の当たりにしてきた。
「真冬の夜の寒さに耐え切れず、ドラム缶で焚き火をしたり、お酒を飲んだり。そのまま路上で寝て、死んでしまうんだよ。そんなホームレスの人が少なくなかった。火葬場に行った回数は数え切れない。火葬に立ち会うのは僕だけ。そんなことが何回もあった。周りで火葬されている人たちは家族に見送られているのに」
75歳の「荒川さん」もバブル崩壊後、ホームレスになり、山友会やジャンさんに助けてもらったという。
16歳のとき、山形県から上京。最初は墨田区の衣類工場で、その後は土木や建築の現場で働いた。それが2000年ごろ、急に変わった。「55歳のころですね。仕事がなくなり、どうしようもなくなった」。日本はバブル崩壊から立ち直れず、不況のさなかにあった。この頃に高校や大学を卒業した若者は「就職氷河期世代」と呼ばれたが、職から弾き出されたのは若者だけではなかった。
「ホームレスになり、台車に荷物を載せて生活をしていたよ。よく山手線にも乗った。ぐるっと1周回るやつ。一日中、駅構内で過ごしたね。ドヤ(簡易宿泊所)に入るときや、頭や胃の手術をしたときに、ジャンさんのお世話になったね。感謝しきれない」
同じアパートで2人が孤独死
今年に入ってから、山谷では1日に10回以上も救急車のサイレンが聞こえる日があるという。東京都の最新資料によると、山谷に暮らす約3800人のうち、約8割が60歳以上。また、9割近くが生活保護を受給している。身寄りのない人も多く、孤独死は珍しくもない。
昨年8月には、同じアパートで同時に2人の孤独死が見つかるケースもあった。ジャンさんと一緒に山谷を見守る男性は、こう言った。
「細い路地に入って、トタンで仕切られた壁の裏の、古い2階建てでした。ツタが絡んで、取り残されたようなアパート。2人の住人が同時に孤独死をした例なんて、今までありません。それも並びの部屋で……。言葉がないです」
こうした山谷を研究者らは「都市型限界集落」とも「超高齢社会の縮図」とも呼ぶ。
ホテルやマンション建設で、山谷も変化
もっとも「高齢化」や「孤独死」だけが、今の山谷ではない。古い簡易宿泊所が壊され、ホテルやマンションの建設も進む。コンクリート打ちっぱなしのしゃれたゲストハウスも相次いで開業した。延期になったとはいえ、「2020 東京オリンピック・パラリンピック」の開催決定が大きかったと山谷の人々は言う。
「新しい山谷」を象徴するのは、外国からのインバウンド客やバックパッカーに狙いを定めたゲストハウスだ。山谷は浅草などの観光地にも行きやすい。そんな便利な場所にありながら、日雇い労働者向けの宿泊所が多いため、宿泊料の相場は安い。そうした好条件に目をつけ、新しいゲストハウスが2000年ごろから次々に誕生したのだ。1泊2300円前後で、今は30施設ほどになるという。
新型コロナウイルスの感染拡大で、今は人影が消えているものの、この春先まで大勢の外国人客らが詰めかけた。週末の夜には、若者向けのバーが満席になった。
2009年開業のカンガルーホテルもその一つ。山谷では先駆け的な存在で、外国人客には知られた存在だ。オーナーの小菅文雄さん(54)によると、元は明治時代に創業した「小松屋旅館」だった。
「祖母が経営を続けていた簡易宿泊所です。それを今の時代向けにアレンジしました。オープンから多くの外国人が来てくれています。最初は主にアメリカとヨーロッパからの旅行者で、その後は中国と韓国が多くなってきましたね」
小菅さんにとって、山谷は故郷だ。
「僕の骨を埋める場所です。ずっとここで暮らしていますから。一時、離れたこともあったのですが、結局は戻ってきた。祖母の代で『簡易宿泊所』をやめることもできたのですが、僕は引き継ぎたかった」
「山谷にはずっと『簡易宿泊所』があり、かつて多くの人が仕事を求めて山谷に来て、暮らした。今の時代は、福祉を受ける人が泊まる宿もあり、国内外の旅行者を受け入れる宿もある。山谷は、その時代のニーズに合わせて、変化していく場所なんです」
最初は山谷の人を「ただの怠け者」と思った
時代によって変わる街、山谷。その象徴は、単身で外国から乗り込み、40年近くここに住むジャンさんかもしれない。
カナダ東部のケベック州生まれ。両親は敬虔なカトリック教徒だった。神父たちから奉仕の心を学び、「人のために生きることは当たり前」と思って育ったという。モントリオール大学で神学を専攻し、聖職を志した。
山谷に来た最初のころ、労働者を「ただの怠け者」と思ったという。
ところが、話をじっくり聞くと、そうではない。会社が倒産したり、家族と離別したり、それぞれにつらい思いがある。何より、山谷の労働者は飾らず、裏表がない。そこに驚いた。
「みんな家族もいたし、仕事もしていた。でも、いろんな問題が起きて、家族がバラバラになって、仕事や住む所もなくなって、路上で暮らすしかなくなったんだよね。僕はそんな彼らを『助けたい』というより、『一緒に生きていたい』と思っている。お酒を飲んで昔話を聞いたり、悩みを聞いてあげたり。時には一緒に泣いたり、笑ったりして。同じ釜の飯を食べて、家族のようになりたいね。そう思ってずっとやってきた」
ジャンさんの献身的な姿に多くの人がひかれ、集まってきた。
例えば、無料クリニックには11人のボランティア医師がいて、たくさんの看護師らも加わっている。その1人、聖路加国際病院救急部長の石松伸一さんは1995年夏から足を運んでいる。
「その年の3月に起きた地下鉄サリン事件がきっかけでした。当時も救急部ですから、サリンの重症患者を診療し、命が理不尽に奪われていくのを目の当たりにした。それからですね。『救急の医師だけをやっていていいのか』と悩んだのは……。今は毎週、研修医らを連れてきます。若手には、ここで社会を学んでほしいですからね」
「僕の役目は教会で祈ることじゃない」
ジャンさんには、忘れられない出来事がある。10年前、弟のような存在だった「カワちゃん」がアパートの自室で孤独死したのだ。
「20年来の付き合いでね。日雇い時代は不器用だったから、(手配師に)うまく利用されたんだね。きつい仕事ばかり。でも一生懸命働いていた。時々ふっとどこかに行ってしまうから、あの時も『そのうち帰ってくるだろう』と」
遺体は死後5日だった。
「火葬の日、とても天気がよかった。火葬場から山友会まで歩いて帰った。後悔しながらね。なんで早く見つけてあげられなかったのか、って。お骨は故郷の東北に送られ、実家のお墓に入れられたと聞いたから、1年後にお寺を訪ねた。真冬。すごく雪が積もっていてね。雪をかき分けてお墓を探したけど、見つからない。お寺の人に聞いたら、カワちゃんの家のお墓はここにはない、って」
ジャンさんは現在も、ケベック宣教会の「終身助祭」という立場だ。しかし、教えは説かない。クリスマスのミサにも出ない。
「30年ぐらい前かな、ミサに出ようと教会に行ったら、聖職者や信者は暖かい教会でミサをしていたのに、外では冷たい雨に降られながら100人以上の野宿者がミサ後の炊き出しを待っていたんだよ。それを見てね、僕の役割は教会の中で祈ることじゃないと思ったんだ」
以来、ジャンさんはクリスマスを山谷で過ごす。
「人にとっての教会や宗教はね、共同体をつくるためにあるんだよ。山谷が新しくなって次々と人が来るのはいいこと。でも、いつの時代も僕にとっての共同体はここにある。山谷の人たちが僕の家族。生きている間も一緒、死んでも一緒なんだよ。故郷のケベックは懐かしいけど、もうあっちで暮らすことはないね」
後藤勝(ごとう・まさる)
1966年生まれ。写真家。89年に渡米。中南米を放浪後、南米コロンビアの人権擁護団体と活動。97年からアジアを拠点として、内戦や児童売買、エイズなどの社会問題を追う。2004年上野彦馬賞、05年さがみはら写真賞を受賞。12年に東京都墨田区でReminders Photography Strongholdを設立。http://www.masarugoto.com/