「ボロボロの団地でオリジナルを学んできたぜ」。静岡県の団地出身のラッパーが注目を集めている。日系ブラジル人、日系ペルー人、そして日本人の混成グループ「GREEN KIDS」だ。日本社会で子どものころからのけ者にされてきた彼らのリリックが、若者の共感を呼ぶ。(取材・文:ジャーナリスト・安田浩一/撮影:菊地健志/Yahoo!ニュース 特集編集部)
深夜を駆け抜ける多国籍ラッパー
深夜2時を過ぎた。フロアの照明が落ちる。
リーダーの日系ペルー人、ACHA(23)がステージに躍り出た。他のメンバーがそれに続く。
仁王のように堂々とした体格の日系ブラジル人、DJ PIG(25)がターンテーブルに指を落とした。大音響が響く。総立ちの観客が歓声で応える。人波が揺れる。膨らみすぎた風船が破裂したように、熱気が、興奮が、弾けた。
今年1月3日、浜松市(静岡県)のクラブでおこなわれたニューイヤーライブ。
客の一番のお目当ては、ACHAとDJ PIGが属する6人組ラップグループ「GREEN KIDS」。日系ブラジル人4人、日系ペルー人と日本人が1人ずつの多国籍チームだ。2015年の初ライブ以来、地元静岡県での人気は急上昇。いまや全国各地のクラブからも声がかかるほどに、ヒップホップ界の注目を集めている。
声をフロアに叩きつけるような迫力のパフォーマンス、個性を生かしたマイクリレー、そしていかついギャングスタイル。“移民としての生き様”をそのままに物語ったリリック(歌詞)のセンスは、他の日本人ラッパーにないものだ。
この日のライブでも、1曲目の「Escape」から彼らの世界観が炸裂する。
妬み、嫉妬、数えきれんほど喰らった
ガイジンだから差別も味わった
路上の空き缶蹴飛ばした
オレの手札はブラジルとニンジャ
上半身を激しく揺らしながら言葉を刻んでいく6人。私は開演直前に楽屋で聞いた日系ブラジル人のメンバー、Flight-A(21)の言葉を思い出していた。
「ラップうまいヤツらって、たくさんいますよね。でも、うまいなあって思うだけで何も残らん。オレら、経験してきたことだけを歌にしている。そこがヤツらとは違う」
ここでいう「ヤツら」は、悪ぶった言葉遊びだけを「流行り」ともてはやす者たちのこと。そこにリアルな言葉の銃弾を撃ち込むのが、GREEN KIDSだ。
「勢いがある。主張がある。あるべきラッパーの姿」と彼らを評するのは、ライブの主催者で、イベントオーガナイザーのT-42(34)。
「初めてライブを見たとき、なぜか震えた。日本社会に生きる外国人ならではの叫びが胸に突き刺さった」
この日のライブを締めくくったのは代表曲「E.N.T」。熱気と興奮で酸欠を招きそうなフロアで、彼らは「経験」を叫んだ。
始まりはこの団地だ
East New Town
オレ様はここで育った
ガキの頃からの仲間が集まった
ボロボロの団地でオリジナルを学んできたぜ
お腹空いて万引きなんて
そんなの日常
そう、物語は「団地」から始まった。GREEN KIDSが育ったEast New Town、磐田市郊外の東新町団地。彼らのホームタウンだ。
日系人「デカセギ」の街
1990年、入管法が改正され、日系3世までの日系人およびその家族の定住資格が認められた。労働力不足という時代背景はあったものの、この改正で、より安い賃金で解雇もしやすい単純労働者を経済界は確保することとなる。これにより南米から多くの日系人が「デカセギ」のために来日。日系人は人手不足に悩む各地の工場地帯に腰を落ち着けた。ヤマハ発動機、スズキをはじめ、日本屈指の大メーカーが生産拠点を置く磐田もそのひとつだ。
磐田で日系人集住地域として知られるのが、市の南部に位置する東新町団地。UR(旧日本住宅公団)と県営からなる全450戸の団地で、70年代から開発が進められた。中心部から離れ、工場群を抜けた先、田畑が広がる一帯に、突然、視界に飛び込んでくるのが同団地だ。
くすんだ色をした5階建ての居住棟は、長閑な田園風景の中で浮き上がって見える。
かつて居住者の多くは近隣の工場労働者とその家族だったが、90年代から外国人世帯が増え続けた。公営住宅は、外国人であることを理由に入居を拒むことがないからだ。いま、居住者の半数はブラジルやペルーから来た日系人である。
一見、古びたどこにでもある団地に過ぎないが、敷地内に足を運ぶと「異国」の空気がかすかに伝わってくる。耳に飛び込んでくるのは情感豊かな響きを持つポルトガル語やスペイン語。団地内の看板や案内標識も日本語とポルトガル語の併記だ。
昼間からパトカーが走り回る団地で
「いまはまったく殺伐とした感じはないけれど」
Flight-Aが周囲を指さしながら私に説明する。
「この団地、以前はスラムって呼ばれてたんですよ、周囲の住民たちから。ガイジンばかりだったからじゃないですかね」
「まあ、実際、ひどかったけどね」と言葉を引き継いだのは、Flight-Aの双子の兄弟Swag-A(21)だ。
「殴り合いのケンカしてるヤツがあちこちにいる。盗んだ単車で走り回ったり、ヤバい薬やってるヤツも少なくなかった。昼間からパトカーが団地内を走り回って、目の前で手錠をハメられた先輩もいましたね」
二人の両親が来日したのは95年。ブラジルで家を建てる資金を貯めようと磐田市内の工場で働いた。98年に二人が生まれ、しばらくしてどうにか貯金もできたが、すでにそのとき、双子は日本での生活になじんでいた。子どもたちの将来を思い、両親は日本定住を選んだ。
だが、彼らが溶け込んでいたのは、あくまでも「東新町団地」というコミュニティである。Swag-Aが自嘲しながら振り返る。
「学校なんてね、クソひでー思い出しかないっすよ」
そもそも初っぱなからつまずいた。小学校の入学式。新入生は体育館で全校生徒を前に自己紹介する流れだ。壇上で、双子の名前が紹介された。しかし双子は当時、日本語が不自由だった。ポルトガル語しか話せない両親と暮らしているからだ。二人はただうつむいて体を固くするしかなかった。思いを伝えたいのに、言葉がまるで出てこない。
「恥ずかしくて、心細くて。だから、みんなの前で二人してわんわん泣いちゃった。みっともないっすよね」
全身にタトゥーを彫ったコワモテの双子も、そのころは多数派におびえる「ガイジンの子」でしかなかった。教師も「ガイジンの子」を日本語も生活能力も不自由なものとして、日本人の子どもとは違った対応を取った。
「早い話、ジャマ者扱いされたって感じっすかね。悪いことは全部、オレらのせいにされた」(Flight-A)
疎外感を味わった人間は、同じ境遇の仲間を求める。いつのまにか、学校に順応できない「ガイジンの子」たちとツルむようになった。前出のDJ PIGとACHA、日系ブラジル人のBARCO(21)、そして唯一の日本人であるCrazy-K(21)。寂しさを紛らわせ、互いを慰め、ともに悪さをするために集まったこの6人が、後にGREEN KIDSとなる。
「中学生の頃、こいつらから『一緒に遊ばん?』と声をかけられた。自分の親からは、絶対一緒に遊ぶなと言われていたのが、まさにこのメンバー。あの場面で誘いに応じたことで人生変わった(笑)」とBARCOは述懐する。
「やってはいけないと親に言われていたことは、たいがい手を出した」
小学生のときにリーマン・ショック
隣町に住んでいたCrazy-K以外は、みな同じ小中学校に通った。いや、正確には所属していただけだった。学校に出かけたふりをして、団地の中庭でサッカーをすることが多かった。授業をサボって遊び惚けるのは楽しい。だが、問題は昼食だった。学校をサボった彼らは給食にありつくことができない。弁当屋やスーパーで菓子やパンを盗んでは、団地裏の倉庫で隠れて食った。
「ほかにすることがなかったから」だとACHAも言う。いまはGREEN KIDSのリーダーとしてメンバーをまとめる彼も、小学校の時に「ガイジン」だと同級生からイジメられた。
「とにかく、何をしていいのか、何をしてはいけないのか、まるでわからない。時間を持て余していました。おまけにカネもない」
フトコロに余裕のある者などいなかった。彼らの両親は多くが派遣や請負契約の非正規労働者だ。昔も今も、安価な労働力として、あるいは雇用の調整弁として“利用”される。日本経済が少しでも傾けば、真っ先にしわ寄せがいくのが外国人労働者という存在だ。
典型的な“事件”が2008年の「リーマン・ショックだった」とGREEN KIDSのメンバーは口をそろえる。08年に米投資銀行であるリーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに始まった世界的な金融恐慌である。世界中でカネが回らなくなり、日本国内の製造業でも「雇い止め」などで非正規労働者の仕事が奪われていった。団地でも、仕事を失った少なくないブラジル人が帰国した。
「知り合いが次々と消えていく。仕事を失った家庭が団地から去って、活気が失われていきました」
ACHAが当時を振り返る。当時、彼の母親も仕事を失った。
「母はペルー料理の店を始めたばかりだったんです。でも、失業したペルー人がどんどん帰国してしまったので商売にならなかったんです。ぼくも残念でならなかった」
がっくりと肩を落とした母親の姿こそが、彼にとっては金融危機の内実である。使い捨てられる「ガイジン」の姿に、自分たちの将来を重ね合わせた。
それにしても当時、彼らは小学生である。その柔らかい頭に焼きついたリーマン・ショックの記憶がスラスラと語られることに、私は衝撃を受けた。おそらく、たんなる記憶ではない。彼らにとってそれは、痛みを伴った経験としてからだに刻印された。
「正直、あのときは団地という環境を憎んでいた」とFlight-Aは話す。
「どうせオレらは社会の除け者だって思うしかなかった。なんでこんなところに住んでなくちゃならねえのかって。希望なんて見えるはずもない」
絶望の淵を滑降するような日々を繰り返すなかで、転機が訪れる。それがラップとの出会いだった。
次から次へとフレーズが浮かんできた
彼らは暇つぶしに見ていたYouTubeで「高校生ラップ選手権」を“発見”した。
「なんだこれ? オレらにもできるんじゃね? そんな軽いノリで、ラップの真似事をして遊ぶようになったんです」(BARCO)
ACHAがみんなを誘い、誰かの家に集まっては、ビートに乗せて互いの悪口を言い合うラップバトルが日常となった。いや、ラップが彼らに生きがいを与えた。世間に、社会に、何かを訴えてみたい気持ちが芽生えた。オリジナルのリリックをみなで考えるようになった。
「普段はポルトガル語と日本語を使い分けていたんだけど、歌詞は日本語にしようと決めたんです。見た目がガイジンっぽいから、あえて日本語を使ったほうがウケると思った」(Swag-A)
いつもたむろしていた団地の集会所前で、毎日練習した。ジュースの自動販売機のコンセントを引っこ抜き、スピーカーを設置した。
「次から次へとフレーズが浮かんできた」とACHAは言う。
「団地って環境だからこそ、ヒントが山ほど転がっている。自分の経験を並べるだけで、どんどん言葉が生まれてくる」
貧困。差別。イジメ。疎外感。盗み。警察との攻防。過去を掘り起こすなか、団地への愛情まで生まれてきたという。団地を「憎んでいた」はずだったFlight-Aも「むしろここで生まれ育ったことが貴重な財産だと思えてきた」という。
「ラップに導いてくれたから。それに仲間と巡り合うことができた。いまじゃ、こいつらみんなファミリー。だから胸張って言いますよ。オレらみんな、東新町の子だからって」
いつしか彼らはGREEN KIDSを名乗るようになった。団地の周囲に広がる田園風景をイメージしたのだという。
豊田の「団地ラッパー」から声が
GREEN KIDSにさらなる転機が訪れたのは2015年。彼らは近隣の工場などで働く社会人となっていた。高校を出た者はいない。働きながらラップを楽しみ、オリジナルをつくってはグループのフェイスブックに動画をアップしていた。
それをたまたま目にして、興味を持った人物がいた。
愛知県豊田市のブラジル人ラッパー、Playsson(22)である。豊田市郊外の保見団地で育った彼も、団地で音楽と出会い、団地で起きたことを言葉に紡いできた。
「同じブラジル人、しかも同じような団地で育っている。親近感持って、フェイスブック経由で連絡したんですよ。一緒にライブやってみないか、って」
そのころ、Playssonはすでに東海地方では名の知れ渡った有名ラッパーだった。そんな大先輩に声をかけられて嬉しくないわけがない。GREEN KIDSにとっての初ライブ。彼らはブラジル人学校で働く知人を口説き、家族ごとスクールバスでライブ会場の豊田に乗り込んだ。
「笑っちゃいましたよ。まさかあんなに大勢で、しかもスクールバスでここまで来るとは」
GREEN KIDSはこのときのライブで初めてステージの上で歌う「快感を知った」(ACHA)という。こぶしを突き上げ、跳びはねる客の姿は、そのまま彼らのエネルギーとなった。
Playssonが、「デカセギ」目的の父と来日したのは2011年。中学校2年生の時。以来、ずっと保見団地に住み続けてきた。同団地もまた「リトルブラジル」として知られる。全住民(7200人)のうち、約半数がブラジル人など日系南米人。多くがトヨタ自動車関連の工場で働く。
「自分も日本の学校に馴染めなかった。ルールがくだらなさすぎて。制服の一番上のボタンをひとつ外しているだけで不良扱い。ボタンひとつで人間性まで判断するのかよと」
当初は見かけ通りに、ギャングスタイルの攻撃的なラップを貫いた。自らの「ワル」な部分を隠さずに歌い、私生活もギャングになりきった。
だが、いま、彼の中で何かが少しずつ変わり始めているという。
「この団地で育ったからこそ見えてきたこともあるんですよ。ここには社会の矛盾が詰まっている。いやでも考えざるを得ないじゃないですか。だから自分にしか訴えることのできないものがあると思うんです。ワルを強調するばかりじゃ、なにも伝わらない」
そしてこう続ける。
「仮にどれだけビッグになったとしても保見団地のレペゼン(ラッパー用語で“代表する”の意味)でありたいと思ってます。たぶん、あいつら(GREEN KIDS)も同じだと思いますよ。どこに行こうが、どこに住もうが、ヤツらも“団地の子”ですからね」
デカくなって団地にカネを
東新町団地の公園で、Swag-Aは上半身裸となりタトゥーを見せてくれた。胸には「GREEN KIDS familia」、右腕には磐田の市外局番「0538」、そして左手の甲には東新町を意味する「ENT」の文字がある。
「この街を、この団地を、ここにいる仲間を忘れないためですよ。オレら、いつかはもっとビッグになりたいと思っている。でも、いつまでも東新町の子であることに変わりはない」
「もっとぶっ飛んでみたい」とFlight-Aは目を輝かせた。彼のMCネームはグループ結成直後、17歳の時のある事件に由来している。
「やんちゃなことばかりしていたら、他の連中から『おまえ、飛びすぎだよ』ってからかわれて、だったらFlightと名乗ってやろうと。そこに本名(アラン)の頭文字をくっつけてFlight-Aってわけです」
「飛びたい」。Flight-Aは何度も繰り返した。体には鳥の羽をイメージしたタトゥーが描かれている。
カメラの前では精いっぱい悪ぶる彼らも、普段は自動車やバイクの工場で働く非正規の労働者だ。双子の兄弟は同じ工場の同じラインで連日、早朝から夕方まで働いている。ときにメディアで取り上げられ、テレビのオーディション番組でファイナルステージまで勝ち進んだ彼らも、音楽だけでメシが食える状況にはない。ライブの収益金はすべてミュージックビデオの制作などに消えていく。
「だからこそ、もっと飛びたい」
Flight-Aはそう言って胸に描かれた鳥の羽を指さす。
「デカくなって、いつか、この団地にカネをばらまいてみたい」
1月におこなわれたライブで「GREEN KIDSが好きでたまらない」というファンの男性(22)は、その魅力をこう語っていた。
「何があっても生きる、生き続けてやる、そんな叫びが胸に響いてくるんです」
それこそが、いまを生きる移民の姿だ。
GREEN KIDSのファンは同じ境遇の外国人だけではない。ACHAは「学校時代なら絶対に一緒に遊ばないような、くそ真面目そうな日本人の若い子が『ファンです』って言いに来てくれて驚く」と笑う。
社会の身勝手な偏見に抗うなかで生まれたGREEN KIDSの言葉は、様々な苦痛を抱えた者たちと共振する。
安田浩一(やすだ・こういち)
1964年生まれ。静岡県出身。「週刊宝石」記者などを経てノンフィクションライター。事件・社会問題を主なテーマに執筆活動を続ける。『ネットと愛国』で2012年講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)、『団地と移民 課題最先端「空間」の闘い』(KADOKAWA)、『愛国という名の亡国』(河出新書)などがある。