東京・新宿。歌舞伎町に最後まで残っていたキャバレー「ロータリー」が2月末、閉店した。支配人の吉田康博はキャバレー一筋62年。「沼地だった頃」から歌舞伎町を知る。戦後の復興を経て、昭和、平成、令和へと変わりゆく歓楽街。吉田はそこでどう生き抜き、何を見てきたのか。土門拳賞写真家・梁丞佑(ヤン・スンウー)が吉田と歌舞伎町の人間模様を記録した。(写真:梁丞佑/文:後藤勝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
一部敬称略
店内のにぎわいは“昭和”
薄暗いホールに昭和の演歌が鳴り響く。ミラーボールが華やかに光り、タバコの煙が立ち込める中を、ボーイたちが動き回っている。テーブルにはろうそく。耳元でささやき合う男女、笑顔で乾杯をする人……。
2月初旬、ロータリーはこの夜もにぎやかだった。
ステージでは、ドレス姿の女性歌手が歌っている。欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」。昭和を代表する歌謡曲だ。
一人の年配のホステスがじっと歌に聴き入っていた。彼女の目から涙が落ち、泣きながら歌詞をくちずさむ。ステージにスポットライトを当てていた年配の男性が近寄り、彼女の肩に手をかけた。この店の支配人、吉田康博だ。
「彼女はね、自分の人生を歌に重ねて泣いているんです。ホステスさんたちは苦労している人が多い。尽くした人に捨てられてボロボロになったりね。みんな昼も夜も働いて、一生懸命生きているんです」
歌舞伎町には1000軒を超える飲食店やホテルがひしめき合う。不夜城と呼ばれる「風林会館」は新宿区役所のすぐ近く。そのビルの6階に「SUNTORYパブクラブ ロータリー」はある。
広さ240坪。約200人の客が収容でき、直近まで80人ほどのホステスが在籍していた。
「いらっしゃいませ! お客さま、お久しぶりでございます!」
店の玄関では吉田が大きな声で客を出迎えていた。今年82歳。広いホールを見渡しながら、背筋を伸ばして足早に歩き、「楽しんでくださいね! ごゆっくりお過ごしくださいませ!」と客にあいさつしてゆく。
「キャバレーというのはショーがあって、バンドもあって、大きいフロアーがあって、ホステスさんのおもてなしもある。音、光、匂いという三大要素で営業をしているんです。それが魅力です。お客さんは昼間一生懸命仕事をしている。だから夜はその分、楽しんでほしいんです」
「水商売の女性の行く末を知ってるんです」
夜7時になると、ホステスの女性が次々と出勤してきた。ロッカールームで着替えて化粧をする。ロータリーで働くホステスの年齢層は高い。40代から50代が多く、最年長は72歳。ビジネスを考えれば若いホステスを雇えばよいが、「しかし」と吉田は言う。
「私は水商売の女性の行く末を知っているんです。みんな、ある程度の年齢になったら働けなくなる。技術もないから。そうなると体を売ったり、悪い世界に入ったりね。とても弱い立場なんです。だから私は、あえて(年齢を重ねても)彼女たちに働いてもらっているんです」
ホステスの静さんは吉田と共に22年間働いている。店での勤続年数は一番長い。
「キャバレーには全てがあるんです。歌やダンス、お笑い、一緒にゲームもする。音楽と熱気があって、みんな元気いっぱいに楽しむ場所。私にとって、ロータリーは家族。吉田さんは父親のような存在」
3年ほど前に働き始めた舞さんも、ロータリーは特別な存在という。
「ここで働いて育っていった人たちが、また新しいお店を歌舞伎町で開いたりしている。ロータリーは根っこという感じ。吉田さんは面倒見が良くて、かっこいい。一度お店で騒いだお客さんを、吉田さんが床に抑え込んだんですよ」
浪川健太さんは、仕事もなくブラブラしていた26歳の時、顔見知りの吉田と偶然道で出会った。
「腹減っているだろ、と言われて、ご飯をご馳走になって。そのままボーイとして働き始め、今はマネージャーです。ここで働き始めた頃(2005年)、お店はいつも満席でしたね。みなさん歌ったり踊ったり。吉田さんは、人間味があって誰でも平等に接してくれる。尊敬します」
68歳になる岩切正憲マネージャーは、10年ほど前に吉田から声を掛けられた。
「吉田さんは仕事には厳しいけど、本当は優しい。そこにひかれた。キャバレーにはキャバレーの良さがある。ここは愉快で安心して飲める場所。歌舞伎町で安心して楽しめるお店は貴重ですよ、本当に」
「ホステスの家族にこの店を知ってほしい」
夜8時過ぎ。吉田はホールを動き回っている。フィリピン人のホステスの家族が来店していると聞くと、「そのテーブルの料金をもらわないように」とマネージャーに告げた。
「外国人ホステスの家族が来日するときは、必ずお店に呼ぶようにしているんです。大切な娘が『ロータリー』という安全な店で働いていることを、家族に知ってほしい。もちろんお金は取らない」
夜9時を過ぎると、ホールは満員に。席がなくて帰る人もいた。閉店は2月28日に迫っている。
「ここ連日、満席です。昔からのお客さんがみんな来てくれるんです。活気があるでしょ。あー、昭和の時代、キャバレー全盛期のようだね」
夜10時、吉田は接客の合間をぬって、楽屋裏の事務所で菓子パンを食べていた。
「これ、夕食。昔は毎日満席で休む暇はなかった。私はね、昭和33(1958)年から歌舞伎町で働いてきました。今年で62年目。当時はまだこの辺りは沼地で、闇市もあった。私ほどこの街を知る者はいませんね。歌舞伎町の歴史と共に、私は生きてきたんです」
欲望を解き放った時代
第2次世界大戦が終結した1945年8月、歌舞伎町の辺りは空襲で焼け野原だった。数年後、地元の有力者らが「観光国家こそ日本の生き延びる道」と考え、民間主導による復興事業を構想。映画館や演芸場、ダンスホールなどを呼び込み、「道義的繁華街」の建設を進めた。歌舞伎の演芸場にちなんで「歌舞伎町」という地名になったのは、1948年のことだ。
吉田は言う。
「昭和20年代は、戦争に行った人たちが外地から日本に戻ってきた。彼らは家族のために、日本の復興のために必死に働いた。そして昭和30年代には、ゆとりも出てきて、多少お金もたまってね。みんな、青春を取り戻そうと必死な時代ですよ。優しさだとか、面白さだとか、欲望とかを求めていた。青春時代を軍国主義下で暮らしていた人たちには、そういうのが全くなかったからね」
欲望を解き放たれた人々は、一気に歌舞伎町に押し寄せた。
「人間は本来、危ない経験をしたいとか、好奇心の塊なんです。特に男はね。私の主観ですけど、そういう経緯があって歌舞伎町は『東洋一の歓楽街』になった。その波に乗って、キャバレーができました。俗にいう大箱というお店。大箱とは、数百人規模のホールがあって、女の子がたくさんいる店。言ってみれば、一度にたくさんの人が遊べる場所です。時代は大箱を必要とした。キャバレーが生まれたのは必然だったんです」
誕生「伝説の支配人」
吉田が歌舞伎町で働き始めた昭和33年、にぎわいはすごかったという。
「悪そうなやつらばかり。どの国かも分からない外国人もたくさんいたしね。悪魔の溜まり場というか。歌舞伎町にはさまざまな人が集まっていたね」
その歌舞伎町で60年以上、キャバレー一筋で生きてきた吉田は「伝説の支配人」と呼ばれる。
「ここでは目の前を札束が飛び交って……。人間の欲や暴力が日常茶飯事。いろんな経験をしました。刀を振り回されて階段を転げ落ちたり、一人で十数人相手にけんかしたり。道端でいきなり数人に拉致されたりね。カタギの自分が、裏の世界の人とも対等に渡り合っていましたからね。周りはハラハラドキドキですよ」
吉田の武勇伝は少しずつ知れ渡っていく。歌舞伎町を歩くと、一歩引いてあいさつする人が増えていった。
「あ、おれも少しは認められているんだな、と。いい気になりながら歩いてね。そんなことが少しずつ重なって、あっという間に60年ですよ。まじめな人は、『歌舞伎町は怖いぞ』って、入ってこない。私みたいに、いい加減な人間にはちょうどいい」
「やんちゃして田舎に住めなくなって、歌舞伎町に流れてくる人も多い。仕事はありますよ、ボーイ、ホステス、皿洗い。やる気さえあれば、履歴書も性別も身分も国境も関係ないんです。人生に疲れ果てて歌舞伎町に流れてくる人もいる。でもここで人の優しさに出合って、人生の再出発をする人もたくさんいるんです」
吉田が歌舞伎町を歩くと、すぐに誰かがあいさつしてくる。自らも積極的に声を掛けていく。
「黒人の呼び込みのお兄ちゃんがいますよね? 私は彼らに声を掛けて、缶コーヒーを渡すんです。そして、『無理やり客引きしちゃ、いけないよ』『ほら、あそこに防犯カメラがあるでしょ、捕まっちゃうからね』と。その黒人は『吉田さんは自分のことを心配してくれているいい人だな』って、思うんです。そしたら次からは、あっちから声を掛けてくる。情報も流してくれて、私は情報通にもなる。この街は、人との付き合いが100円でできる。人との出会いは、仕事だったり、恋愛だったり、いろんなチャンスを生む。それが歌舞伎町なんです」
勉強より先に遊びを覚えた
吉田は昭和13(1938)年、福岡県の八幡市(現・北九州市)で生まれた。八幡市には八幡製鉄所(現・日本製鉄)があり、北九州工業地帯における重工業の中心地として栄えていた。
「八幡市は鉄の都と呼ばれてね。もうね、街には男ばっかりで。時代も時代だったから、男社会で育ちました。私が育った家庭は、裕福ではなかったが、不自由のない生活でした。母は一歩引いて歩く昔ながらの女性。父は桃太郎って名前で、安川電機で働いていた。父の厳しさは半端ではなく、殴られるのは当たり前でした」
男は玄関から、女性は必ず裏口から入った。本を読むときは、部屋の真ん中で姿勢を正して読み、壁にもたれていようものなら殴られた。口答えなど考えられない。父は絶対的な存在だった。その反動か、学校でもけんかばかりだったという。
昭和31(1956)年、上京して大学に進んだ。
「大学でもけんかばかりした。勉強ができなかったから、けんかで自分の存在感をアピールしたかった。18歳と若いでしょ。ばかでしたね。結局挫折して、2年で大学をやめてしまった。今思うと、その挫折から学んだんです。人生は一筋縄ではいかないとね」
退学した後、友人に「仕事ならキャバレーがいい」と紹介され、ボーイを始めた。当時、20歳。人に喜ばれ、頑張ればそのぶん認められるサービス業は、実力の世界であり、天職と感じたという。
「よし、この世界で成り上がってやろうって。人の倍働いたね。それからは、いろんなキャバレーを渡り歩いた。62年間で30軒近く。さまざまなオーナーに仕えることで、それぞれの経営学を学ぶことができました。その頃の歌舞伎町では、華僑のオーナーも多かったから、華僑の仕事の鉄則も学んだね」
「裏の世界」とも
吉田は27歳の時、タバコ、酒、ギャンブル、全てをやめた。仕事は順調だったが、飲むと酒乱になり、そのたびに問題を起こしたからだという。
「これ以上続けていたら、友だちを全てなくすぞって先輩に言われてね。酒飲んで警察沙汰になって、連れて行かれた時に惨めさを感じたり。ギャンブルはいつも花札。札束のぎっしり入った給与袋を机に置いて。でも、いつも負け。おれ、ギャンブルの才能ないなって悟ったんです。周りには、病気してもお金がない、捕まってもお金が払えない人たちが多くてね。『おれもこのままではだめになる』って気が付いた。それで全部やめちゃえ、って」
その後もキャバレーを転々としながら、経験を積む日々は続いた。
「昭和50年前後かな。30代半ばだった私は、ムーランドールというキャバレーにいました。近くにクラブハイツという店ができ、向こうがうちの女の子を引き抜いたんです。この世界では、女の子の引き抜きもしょっちゅう。いい子がいないと、キャバレーに客は来ないですから」
ライバル店がオープンするその日、吉田は引き抜かれたホステスが車で地下の駐車場に入るのを見張っていた。
「私とボーイたちが、車の前に寝転がって、駐車場に行くのを防止するんです。すぐに乱闘になった。そんなの日常茶飯事。あの時代は、そういうことがまかり通る時代だったんだね。けんかの後に、裏の世界の人が出てきたこともあった。そうすると、こちらも同じように裏の世界の人を出してね。そういう時代もあったんです」
吉田はよく「裏の世界」への誘いも受けた。
「おまえ気に入ったよ、って組織のバッジをくれるんです。勘弁してくださいよ、と言ってね。ときどき聞かれるけど、よくその世界に入らなかったね、と。派手な世界でいい思いをしている人を見て、すごいなあと思うこともあったけど、でも、いい思いを続けていると、絶対、反動がくると思っていましたから。いろんなキャバレーで働き、たくさんの人生を見て勉強していましたからね」
1980年代から90年代、歌舞伎町ではまだ、裏の世界との関係を簡単に切ることができない状況だったという。それが2004年の「歌舞伎町浄化作戦」以降、流れが変わった。「昭和」も遠のき、社会全体も変化しつつあった。
そうした中、吉田も東京弁護士会民事介入暴力対策特別委員会と協力し、歌舞伎町で犯罪防止のためのパトロールを始める。
「いわゆる、ぼったくり防止パトロールです。私は歌舞伎町の隅まで知っていますから、『同行しましょう』とボランティアで始めました。歌舞伎町の未来を考えると、誰かがやらないといけないな、って。こんな私ですが少しお手伝いしましょうか、って」
そうした功績で吉田は2018年、新宿警察署も関わる新宿繁華街犯罪組織排除協議会から「犯罪組織排除功労者」として表彰された。
「その時ね、『あんまり変なことを言うなよ』って、裏の世界の人から言われました。私は歌舞伎町の夜の世界で生き残るために、裏の人たちともうまく付き合いをしてきました。昔は何か店で問題があると、警察が3分かかって来るとこを、裏の人は1分で来てくれた。そんな時代だったんです。今は時代が変わって、彼らと付き合ってはいけない。だから私も時代の流れに合わせたんです。警察関係の人とは、今も昔もお付き合いがある。そんなわけで、裏の世界の人たちと警察の人の名刺は、すごくたくさん持っているんですよ」
キャバレーと共に戦後を駆け抜けた吉田。
その彼は従業員やホステスたちに向かって、真剣に「お金の大切さ」を説き続けてもきた。
「人生で一番何が大切かと話すとき、『お金だよ』と言うんです。厳しく言います。もちろん人とのつながりも大切だけど、歌舞伎町で生きている私たちは、甘い考えでは生き残れない。自分が倒れたとき、病院に運ばれるとき、たった一人なんです。そのときに必要なのは、お金だよ、って。ホステスたちには『家族に何かを買ってあげるときに必要なのはお金だ、愛情だけでは人は育たない』と伝える。お金の大切さを感じてほしいんです。そうすると、お金をためようと必死になって仕事を頑張れるんです」
「自分だけの力では抗しきれない」
1998年にロータリーのオーナーになり、以来、22年。「引退」を考え始めたのは、1年ほど前からだ。
「私はキャバレーが好きで、現役で頑張っていた。でも、お客さんがだんだん少なくなって。これは私一人の力ではどうすることもできない。時代にどんなに抵抗しても押し流されてしまう。自分の立場を自分で理解して、もうそろそろ引退かな、と」
キャバレーに来る客は年をとり、お酒を飲まなくなり、遊ばなくなった。従業員やホステス、吉田自身も年をとった。
吉田は、この店のオーナーになったとき、他店から50人以上のホステスを引き抜いたことがある。
「当時はホステスが200人ぐらいいて、一晩でお客さんが300人以上。1日の売り上げはいつも500万、600万。昔は人件費が42パーセントぐらい。今は50パーセントぐらいかな。人件費の高騰もキャバレーを閉店へ追い込んだ原因の一つかな」
閉店後、ここには老舗のホストクラブ「愛本店」が移転することになっている。
「以前の歌舞伎町は男の遊ぶ場所でした。ここ10年ぐらいかな、ホストが独立して次々とお店をつくって。今はもう、歌舞伎町は女性が遊ぶ場所という雰囲気になった。良いか悪いかは別としてね。ホストクラブでも頑張っているお店もあるし。時代が変わったというより、人の考え方が変わった。考えも変わって、遊び方も変わった。時代の変化は、受け止めないといけません」
支配人と共に働いて
吉田の周囲にいた人々は、吉田をどう見ていたのだろう。吉田に何を見ていたのだろう。
踊り子の夏希さんは2月21日が最後のステージだった。吉田の扱う照明の中で艶やかにセクシーなダンスを披露したが、ロータリー閉店を機にダンサーそのものを引退するという。
夏希さんは言った。
「年齢もあるしね。でもキャバレーが少なくなったのが一番の理由。いいきっかけだなと思っています。ロータリーは自分にとって大きな存在。お父さんのような吉田さんがいて、お母さんやお姉さんのようなホステスさんがいてね」
72歳の柳本尚一営業部長は、36歳からロータリーで働いてきた。キャバレーは日本の歴史をつくってきた場所だという。
「大手のゼネコンの人がここに来て、商談をまとめて、ビルや道路を造った。ここは楽しみながら仕事の話がまとまる、特別な場所なんです。キャバレーには、政治家や作家、芸能人や会社の社長、いろんな人が来る。私も普通だったら政治家と会話などできない。でも、ここでは会話ができる。だからキャバレーは特別なんです」
ホステスの中村まゆさんは、ロータリーで働いて10年ほどになる。
「吉田さんは優しいけど、厳しいお父さん。自分の親より100倍厳しい。でも、友だちに言われた。『あんたね、大人になって自分を叱ってくれる人は神様だよ』って。こんなに真剣に怒ってくれる他人は、この先にはいないんじゃないかな」
厨房で働く中村英男さんは、大学生時代から吉田を知る。出会いは45年前だ。
「当時、僕はピンクキャバレーでアルバイトをしていて、時給が300円。でもキャバレーは500円でね。僕は野球をやっていて坊主頭で。『そんな頭じゃホールを歩けないぞ!』って言われて、以来、厨房専門」
「僕はね、吉田さんに会えなかったら、たぶん裏の世界に入っていただろうね。真っ当な世界に導いてくれた恩人ですよ、吉田さんは。もしも吉田さんが亡くなっても、たぶん誰にも知らせないだろうね。そういう人だから。でも、いいんです。吉田さんとの思い出は、ずっと心に残っていますから」
吉田がいつも行く理髪店の店主、成田さんとその友人の茂山さんは常連客だ。
「吉田さんの散髪は私の担当。髪を切っている時に、いつもためになる話をしてくれるんだよ。それが楽しみでね」と成田さん。
茂山さんは「あんなに世話好きな人は他にはいないね」と言う。
「キャバレーを守り続けてくれてありがとうって、言いたいね。ここの年配のホステスたちがいいね。おれたちみたいな、昭和の人間が遊ぶ場がなくなってきたね。一つの時代が終わったね」
「50年後の歌舞伎町の姿を見たい」
最終日の2月28日、金曜日。
いつものように吉田は、満席のホールを忙しく歩き回っていた。夜11時半。閉店時刻になり、古くからの友人たちが吉田をステージに上げた。
「吉田さん、長い間、本当にお疲れさまでした!」
いつもスポットライトを当てる側だったのに、今日は逆だ。贈り物を渡された吉田は客席から拍手を浴びた。
午前0時を過ぎ、最後の仕事を終えたホステスたちが店を後にしていく。吉田が見送っていると、一人の女性が泣きながら吉田に近づいた。
「これまで本当にありがとう。私なんか、おばさんだし、他の場所で働けないんだよ。ここしか働ける場所はなかったんだよ。吉田さん、本当にありがとうね」
翌日、ロータリーの解体作業が始まった。古いインテリアや椅子などが運び出され、天井のミラーボールも取り壊されていく。その間も、吉田は忙しそうに事務所を行ったり来たりしていた。ホステスたちの次の仕事先を見つけるために、他店のママと交渉しているという。
吉田は閉店後も、歌舞伎町には関わり続ける。
「小さな事務所を構えてね。ゴミ拾いやパトロールをしたり、経験は豊富だから、困っている人の相談に乗ったり。いろいろと役に立てることはあると思うんです。でもね、引退後は一気に老けるでしょうね。緊張感とかがなくなるから。それが心配かな」
事務所の壁には、吉田自ら書いた夢が掲げてあった。
「かなわぬ夢だと分かっていても、50年後の歌舞伎町のネオン街の姿を見たいものだ 吉田」
梁丞佑(ヤン・スンウー)
1966年韓国・井邑(チョンウプ)市生まれ。フリーの写真家。96年に来日し、日本写真芸術専門学校へ入学。東京工芸大学芸術学部写真学科を卒業後、同大学院芸術学研究科メディアアート専攻写真メディア領域修了。2017年土門拳賞を受賞。https://photoyang.jimdo.com/
後藤勝(ごとう・まさる)
1966年生まれ。写真家。Yahoo!ニュース 特集で写真監修。89年に渡米。中南米を放浪後、南米コロンビアの人権擁護団体と活動。97年からアジアを拠点として、内戦や児童売買、エイズなどの社会問題を追う。2004年上野彦馬賞、05年さがみはら写真賞を受賞。12年に東京都墨田区で写真総合施設Reminders Photography Strongholdを設立する。http://www.masarugoto.com/
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト