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佐々木康太

「売れたのはラッキーの積み重ねだった」――紅白ラッパー・SEAMO、今は馬主に 振り返る絶頂期

2020/01/16(木) 08:23 配信

オリジナル

もう一度紅白に出たい、武道館に立ちたい―――。そう考えるのは、ラッパーのSEAMOだ。2006年の「NHK紅白歌合戦」に出場し、2008年には日本武道館で単独ライブを開催。しかし、次第にテレビで彼の姿を見る機会は減っていった。現在は地道に音楽活動を続けつつ、なんと馬主として競馬界で知られた存在になっているという。波乱万丈なSEAMOのジェットコースター人生を追った。(取材・文:山野井春絵/撮影:佐々木康太/Yahoo!ニュース 特集編集部)

絶頂はほんの一瞬、全てが悪いほうへ転がっていく

2005年に彗星のごとく現れ、翌年には「マタアイマショウ」「ルパン・ザ・ファイヤー」など大ヒット曲を連発したラッパーのSEAMO。同年、「NHK紅白歌合戦」に出場し、2008年には日本武道館で単独ライブを果たすという、ミュージシャンの夢を一気にかなえた男だ。

「次はドームツアーかな」

当時はそんな考えも無邪気に浮かんだが、そこからは苦難の連続だった。

スキャンダルを起こしたわけではない。どんな仕事にも真面目に取り組んだ自負もある。しかし、セールスや動員は低迷していく。

「少しずつ、何かが噛み合わなくなっていった……そんな感じでした。それまでは、シングルを出せばすぐ上位にランクイン、『ミュージックステーション』は出演できて当たり前、みたいな時期があって。それが、だんだん“当たり前”じゃなくなっていくんです」

特につらかったのは、レコード会社を移籍した2012年ごろ。会社とコミュニケーション不足に陥り、マネージャーは頻繁な交代を繰り返す。

「マネージャーがいない時期すらあった。孤独でした。とにかく、音楽を作りながら、じっと耐えるしかなかった」

やがてヒット曲が作れなくなったことの「責任者探し」が誰からとなく始まった。

「『マタアイマショウ』以降は、曲に対して誰にも文句を言われない時期があったんです。あの曲は、当時目新しかったラブソングのラップで、みんなが売れないと予測するなか、結果、当たった。だから『SEAMOには何も言えません』みたいになって。だけど、売れなくなると、『あれがよくない』『あいつがよくない』って責任の所在を探り合うようになった」

「僕自身も人のせいにしていたところはあります。やがて会社の人間も、『SEAMOにやらせているからダメなんだ』ってなって、どんなにデモテープを上げても、納得してもらえない。やらされている感覚にも陥って。どんどん、悪いほうへ転がっていきました」

「みんな頭がおかしくなっていくの、ここだろうな」

もう一度這い上がろうと、曲作りやボイストレーニングを地道に続けた。それは「バットを何度も振りにいっては、空振りして倒れるような日々」だった。

「何をやっても結果が出ない。一度登った山を下る……その現実を受け入れる作業は、とても残酷で、苦しいものでした。みんな頭がおかしくなっていくの、ここだろうな、って。一回極めた景色を見た後で下っていく、あるものがなくなっていくというのは……心がボキッと折れてしまう」

なぜ、SEAMOは一時期の好調さを失ったのか。

「実際は、ラッキーの積み重ねだったんだろうと。ラブソングでメロディーがベースにあるラップの『マタアイマショウ』とか、『ルパン三世のテーマ』に日本語ラップをのせた『ルパン・ザ・ファイヤー』のアイデアは“早いもの勝ち”だった。人々が欲しているタイミングでいち早く、時代の大きな追い風に乗れた。だけど、本当にそのポジションに立つための自分自身のスキルは足りなかったのかな、と今は思うんです」

絶頂期は、CDセールス、オリコンチャートなど「数字ばかり追いかけていた」。本当に大切なものを見失っていたかもしれない、とSEAMOは言う。

「ヒット曲を好きでいてくれた人はいたかもしれない。でも、楽曲、ライブ、パフォーマンス、すべてをひっくるめたSEAMOというアーティストは、武道館の客席数ほどの、本当のファンを獲得できてなかったのかな」

年収は一時、絶頂期から比べると大幅に減少。それでも印税や楽曲提供もあり、「ただちに食えなくなるってことはありませんでしたよ」と苦笑する。

「シーモネーター」の挫折に鍛えられた

SEAMOの挫折は、これが初めてではない。2002年に「シーモネーター」という名前でメジャーデビューするも、約1年でレコード会社から契約解除されている。アキラ100%が登場する20年以上前から、“全裸・腰に天狗のお面”というインパクトある姿で、東海地区ではかなりの有名人だった。

「もう一度メジャーデビューしたいって、がむしゃらでした。名刺に『ディレクター』とか『A&R』とか、肩書がある人にはガンガン営業しました。ある会社の社長さんには、『新幹線の移動中なら時間が取れる』ってことで、横に乗り込んで、デモテープを聴いてもらったりして。あるレーベルの方には一晩じゅう連れまわされて、酔っぱらいに『今ここで歌ってみろよ』って言われたりとか。クソミソなこともありましたけど、ガッツはあったかな」

泥まみれになりながら上を目指した当時の経験は、SEAMOのハートを強くしたという。

「ミュージシャン志望者にとって、当時の一つのゴールは『東京でデビューする』こと。SEAMOとして再デビューが決まった時は、人生で一番嬉しかった。本当に、紅白よりも、武道館よりも嬉しかった。夢をつかんだ瞬間だったからだと思うんです」

しかし、絶頂期でもSEAMOの自宅はずっと名古屋市内にあった。東京に住んだことはない。地元に対する思い入れの強さからだ。

「名古屋にはnobodyknows+、HOME MADE家族など、勢いのある仲間がいました。地元にいても東京に勝てるって。もちろん、やっぱり東京はすごいなって痛感してますけど。でも、地元のファンは、ずっと見守ってくれている。感謝しています」

名古屋のミュージシャンたちからは「塾長」と呼ばれ、地元ヒップホップ界では重鎮として知られるSEAMO。現在はFM局でレギュラー番組も持ち、多忙な日々を送る。同郷で知られる映画監督の堤幸彦が監修したSEAMOのドキュメント映画「もしもあの時 “if”」も公開された。

競馬場にいるほうが声をかけられる

10年かけてゆっくりと長いトンネルを抜けつつあるSEAMO。実は、馬主としても知られた存在だ。競馬との出会いは、大ブームになったオグリキャップがきっかけだった。

「オグリキャップがデビューした地方競馬場は、僕の家のすぐ近くにあった。田舎出身の無名馬が、中央のエリートたちをバッタバッタと倒していくのは、本当にカッコよかった。なんとなく、僕らのヒップホップドリームと重なるものもあって」

SEAMOの場合、馬を「共同所有」するスタイルだ。

「共同馬主、一口馬主なんですよ。例えば、2000万円の馬がいるとして、400人で割ると、1口5万円。それくらいの金額で馬に出資ができて、毎週その馬の近況も得て、楽しむ。まあ、どっぷりハマっていきまして(笑)。そんなに多くは儲からないんですけど、馬が『見える』ようになっていくんです。そうすると、たまに当たりの馬も引けるようになったり」

競馬を通して、多くの友達にも恵まれた。

「年に何回か、馬を見るために一緒に北海道に旅行するのがライフスタイルになりました。競馬の予想番組に出たり、競馬場でライブしたこともあります。下手すれば、その辺を歩いてるより、競馬場にいるほうが声かけられるんじゃないかっていうくらい(笑)」

「一頭馬主」になろうと思ったことはないのだろうか。

「もちろん憧れはありましたけど、知れば知るほど、リスクも大きい。北島三郎さんがキタサンブラックで大儲けしたと思われてますけど、山ほど損をしてきて、やっと取り返したくらいだと思いますよ。僕もよく『儲かってるんですか?』って聞かれますけど……儲けじゃなくて、ロマンのためにやっているわけで」

ロマンのためとはいえ、元手がなければ続かない。馬の餌代もかかる。デビューして走り出すまでに1年は待たなければならないともいう。コツは、走らない馬を見抜くことだ、と、SEAMOの口調には熱がこもる。

「走る馬と走らない馬っていうのは、明白です。音楽も同じですよ。やればやるほどいろんなことが分かってくる」

つらいことがあった時は、馬に逃げるようにしていたSEAMO。アップダウンの激しい自身の人生も、共同馬主という趣味に「救われた」という。現在は、「馬を見抜けるヒップホップアーティスト」として、唯一無二の地位を確立しつつある。

ユーチューバーになってチャンスを見つけたい

現在44歳のSEAMOいわく、「僕たちが、『CDバブル』の最後の恩恵を受けた世代」。「サブスク」が台頭する現在の音楽シーンに、何を思うのか。

「CDが売れなくなったことに対して、僕らの世代の人はぼやいてると思いますけど、あの時がむしろ、異常だったんじゃないかな。だからこそ本物が生き残れる時代。ちゃんとやるべきことをやって、『この人のライブが見たい』と思わせるようなアーティストでいたい」

これからの夢を尋ねると、「ユーチューバーになりたい」と即答した。

「自分で次のチャンスを見つけたいですね。本音を言えば、もう一度、紅白にも出たいし、武道館で単独ライブがしたい。あの時は、本当に、わけもわからず晴れ舞台に立っていたという感じで、感動して泣くということもできなかった。今度こそきちんと、思いを噛みしめたいんですよ」

SEAMO(しーも)
1995年より地元名古屋、東海地区を中心にシーモネーターとして活動をスタート。2005年、シーモネーターとしての活動はやりつくしたとの思いから名前をSEAMOに改名。2006年にリリースした4thシングル「マタアイマショウ」がロングヒットとなる。自身が発起人となり東海地区の夏フェス「TOKAI SUMMIT」を10年連続で開催するなど、名古屋に縁の深いラッパー、シンガーソングライターである。SEAMOとしてデビュー15周年迎え、プライベートでも親交のある堤幸彦が監修したノンフィクション映画「もしもあの時 ” if ”」が公開中。


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