「自分のやってきたことは消すことができない。人生いくらでもやり直せるなんて言い方は嘘くさいと思うんです」――。数々のヒットソングを放ったシンガー・ソングライターのASKAが、今年でデビュー40年という大きな節目を迎えている。2014年の事件後、一時は引退まで考えた。この8月にはCHAGE and ASKAからの脱退を発表するなど、新しい音楽人生を歩いている。光と影を経験し、そしてまた光に向かって歩き出しているASKAのいまに迫った。(取材・文:宗像明将、撮影:岡田貴之/Yahoo!ニュース 特集編集部)
心が軽くなった言葉がある
2年前から音楽活動を再始動した。この11月にはソロ作品として10年ぶりになるシングル「歌になりたい」を発売し、ミュージックビデオを作った。ロケ地に選んだのはアイスランド。映像でASKAは、地平線まで広がる真っ黒な溶岩台地をたった一人で歩いている。空を抱えるように両腕を広げたかと思えば、拳を強く握りしめ、歌う。喜びに身を任せるかのような表情からは、音楽活動の充実がうかがえる。
ある日 ぼくは こう思ったんだ
歌になりたい
ぼくにできないことなんて あるのだろうかと
そして きょう ぼくは 思っている
ぼくに できることなんて あるのだろうかと
そのASKAが、5年前の自分を振り返る。
「音楽業界からの引退を考えました」
2014年、「事件」を起こした。そのことは連日にわたってメディアで報道された。
「人前に出て、堂々と振る舞うことができなくなりました。それに、自分の起こしたことで(当時のマネジメント)会社との契約が破棄されました。コンプライアンスを重要視したのは理解できますが、変な感覚でした。自分が半分権利を持っている会社からの契約解除ですからね。何も考えられなくなり、いっそのこと引退と考え、これまでお世話になった人、友人らに電話をかけたんです――」
様々な反応が返ってきたという。ある人は神妙な声色で「何言っているんだ、考え直せ」と諭してきた。怒気を感じさせるほど強い調子で「それでいいのか?」と問いかけてくる人もいた。「どうして」「仕方がない」「もったいない」――かけられた言葉はどれも重たかった。それだけに、別の人が返してきた反応に驚いた。その人は、拍子抜けするほど軽い調子でこう言うのだった。
「何を言っているんですか……。やりますよ!」
ASKAはこう言う。
「不思議と、その言葉が胸に落ちてきたんですよ。こわばっていた心が動いて、吹っ切れたんです。心が軽くなった」
その言葉で引退を踏みとどまったという。
「いま、新しい人生を歩いている気がします。自分の起こしてしまった事実は、変えられない。ただ、あの経験があったからこそ、見える景色が新鮮に感じられるんです」
この8月、ASKAは一つの決断をした。CHAGE and ASKAからの脱退だ。こう質問をした。
――もう一度2人で歌おうとは思いませんか。
「何が起きても不思議ではないんですけど、ひとつ言えるのは、いままで2人で作ってきたものは変わらない、ということでしょう」
道を切り開いたポップス、「パラダイス銀河」誕生まで
「チャゲ&飛鳥」でデビューしてから40年になる。道を切り開いてくれたポップスには特別なこだわりがあるという。
「1979年にデビューした翌年、『万里の河』というヒット曲に恵まれました。当時、その曲調は『演歌フォーク』と呼ばれたんです。何をやるにも演歌フォーク的なものを求められ、苦しみました。ぼくらは、演歌もフォークと呼ばれる曲も聴いて育っていないわけですから、困惑しました」
「演歌フォーク」から離れ、本来、自分の中にあるポップスを前面に打ち出して勝負したい。そのためにレコード会社を移籍した85年秋以降、ASKAは音楽制作のスピードを上げていく。この時期、シンガー・ソングライターとして大きな仕事をしている。ジャニーズ事務所が売り出した男性アイドルグループ「光GENJI」への楽曲提供だ。同じ事務所に所属していた「シブがき隊」に楽曲提供をしたのが目にとまり、故・ジャニー喜多川から「指名」されたのだった。
ある日、ジャニー喜多川から「会えないか」と連絡が入った。
「ジャニーさんにお会いするのはこのときが初めてでした。当時、プライベートスタジオをつくったばかりでぼくはそこでレコーディングをしていたんですね。ジャニーさんは直々に会いに来てくれました。所在地を確かめるため、何度も電話をしてくれたようなんですが、スタジオが工事中だったときの仮の番号におかけになっていたようで、つながらなかった。かなり探された末にスタジオに到着されたんです」
ローラースケートを履き、歌って踊る少年7人組。「光GENJI」という斬新なプロジェクトに対し、ジャニー喜多川は熱を入れていた。こう言ったという。
「当たるかどうかはわからない。ただし、当たれば社会現象になる」
その予測は当たった。デビューシングル「STAR LIGHT」はオリコン初登場1位。2作目「ガラスの十代」、3作目「パラダイス銀河」も当たった。光GENJIはのちのSMAPや嵐などの男性アイドルグループの道を切り開き、ローラースケートブームをも到来させた。
そう、「社会現象」は本当にやってきた。ASKAはいずれの楽曲でも作詞・作曲を担当(「STAR LIGHT」のみチャゲ&飛鳥での作曲)した。楽曲はいまも熱心な音楽ファンの間で語り草になっていて、カラオケで歌われている。
ようこそここへ 遊ぼうよパラダイス
パラダイス銀河
胸の林檎むいて
大人は見えない しゃかりきコロンブス
夢の島までは さがせない
「これが人生のピークなのだとしたら」。33歳で感じた恐怖
光GENJIの仕事が一段落し、30代に入った。このころASKAは死ぬほど働こうと決めていたという。
「人生は一度きり。あとから振り返って、後悔しない働き方をしたかったんです。あのころ、休みもとらずに猛烈に働きましたね。それに歌にしたって、30代だから歌えることがあるんですよね。何でも歌えるのが30代なんです。わかったようなことを歌っても許されるし、恋愛の生々しさも歌える。切なさやエロティックなことを歌っても許される。これが40代、50代になってくると、おぞましく聞こえてくる。いつまでも歌えるものではないんです」
結果はついてきた。
33歳、CHAGE and ASKAで発表したシングル「SAY YES」(91年)はオリコンチャートで13週連続1位を記録し、年をまたいだ実売枚数は300万枚を超えた。同じ年にソロで発表したシングル「はじまりはいつも雨」も100万枚を超える売り上げとなっている。
「ぼくらのヒットって、CDが一番売れている時代に起きたことだったんです。知らない世界に毎日踏みこんでいっている。そんな実感です。『SAY YES』は、連日3万枚から5万枚のバックオーダーが続きました。いまとなっては信じがたい数字でした」
売れ続けるCD。忙しい毎日。こんな感情にとらわれることがあったという。
「33歳でした。これが自分の人生のピークなのだとしたら……。恐怖に似たものを感じました」
その後も「YAH YAH YAH」(93年)、「めぐり逢い」(94年)といったシングルをミリオンセラーにする。このころASKAは「ブームになってしまった」という気持ちを持っていた。スケジュールは3年先まで埋まっている。仕事を断らなければならないときもあって、そうしたことも少なくなかったため、「横暴だ」と言われることもあったという。あのころ、淡々とやることは「簡単ではなかった」と振り返る。
人生はやり直しがきかない。だから――
Twitterに「ASKA bot」というアカウントがある。過去にASKAのした発言を自動的に投稿してくれるbotだ。ある日、自分の発言を読んではっとしたことがあるという。
「30代の自分は『人生はやり直しがきかない』って発言しているんですよね。ぼくが事件を起こしてしまったのは、50代後半。人生80年だとしたら、もう折り返し地点は過ぎています。50年も生きていると、自分がどんな人生を生きてきたか。輪郭が見えてくるもので、あとからどうにかできるものではないんですよ。自分がやってきたことは消すことはできない」
こう続ける。
「人生いくらでもやり直せる。一からやり直せますよ――こんな言い方は嘘くさいと思うんです。誰かを励ます意味ではあり得ても、ぼくにとってリアリティーのある言葉ではありませんね」
もう元に戻らないことがたくさんある。そのことを知っている。ただ、こうも考えられるようになった。
「だから人生、面白いんだと」
この2年間、一人で活動するようになって音楽ビジネスの構造、課題で見えてきたことがたくさんある。これからのミュージシャンはどうやって生きていくべきか、考える時間が増えた。
「いまの若い子たちは、音楽で食べていくのが大変だから、グッズを作るとかそういう知恵をつけています。ただ、本来は音楽で食べていかないと。たとえば楽曲の原盤権を自分で持って、著作権管理を自分でやるとか、みんなもっと個人商店のようになって働いてみたらどうかと思うんです」
幸いにも、「音楽で食べることのできた世代」。積んできた経験を若い世代にどれだけ伝えていけるか。ASKAはいま、そのことに強い関心を持っているという。
10月、40年ぶりに剣道を再開したASKAは、北区剣道大会(東京都)の「一般男子60歳以上の部」に本名で出場。いきなり優勝し、話題になった。
「ある大学の剣道場に通っていて、若い部員の練習相手もしているんですよ。一緒に過ごす時間も多いので、同じ剣士として、練習仲間として、彼らにどんな言葉をかけるべきか考えます。いま、そのことが楽しくてしょうがないんですよね。自分にも若者だったときがありました。勢いのあるときは『何でもできるぞ』と感じられた。けれども、そうでなくなったとき『自分程度で何がきるのか』と思うこともある。……両方真理なんじゃないでしょうか。これまで生きてきていろんな経験をしましたが、いまは全てが必要なことだったと思えるようになりました。全てが通過点。最後は笑顔で死にたいですね」
ASKA(あすか)
1979年、チャゲ&飛鳥(のち、CHAGE and ASKAに改称)「ひとり咲き」でデビュー。ソロ活動、他のアーティストへの楽曲提供も並行する。ソロアルバムに「SCENEⅡ」などがある。また、アジアのミュージシャンとしては初となる「MTV Unplugged」へも出演するなど、国内外から多くの支持を得る。2017年には、自主レーベル「DADA label」から、アルバム「Too many people」「Black&White」 等をリリース。来年の3月20日には新たなソロアルバムの発売も控えている