20年余り前、産業廃棄物処分場の建設計画に揺れる岐阜県の小さな町で、町長が何者かに襲われ、瀕死の重傷を負った。これをきっかけに実施された住民投票で示されたのは、「建設反対」の意思。そして計画は撤回に追い込まれたが、事件は未解決のまま時効となった。あのとき住民たちは、なにを学んだのか。新しい時代を迎えたいま、改めて現地を歩いた。(取材・文=今西憲之、鈴木毅/Yahoo!ニュース 特集編集部)
ゴミで埋まるはずだった場所
木曽川をせき止めるダムをまわり込み、谷の斜面にある一本道を進むと、すすけた木造の集会所が見えてきた。崩れかけたアスファルトの道の端では雑草が生え、脇に点在する廃屋にはツタが張っている。見渡す限りの緑。時折、どこからかウグイスの鳴き声が聞こえてくる。
ここには、かつて10戸程度の小集落と、小規模ながらも美しい棚田があったが、いまはほとんどが転居し人けはない。この地は、1990年代に「東洋一の規模」とうたう大規模な産廃処分場の建設が計画され、都市部から搬入されるゴミで埋まるはずの場所だった。
「いやあ、懐かしいな。町長に就任した当初、ここにも住民対話で来たんですよ」
産廃処分場の建設計画を止めた張本人である岐阜県御嵩町の元町長・柳川喜郎さん(86)は、集会所の前に腰を下ろすとこう語り始めた。
「ほら、その辺から木曽川が見下ろせるでしょ。処分場ができていたら、この場所から80メートル上までゴミで埋め尽くされていたなんて、信じられます? もしも雨で汚染水が木曽川に流れ込んだら、どういう影響があるか。いま考えてもゾッとしますよ。ここに一度でも立ってみれば、良いか悪いかなんて子どもでも分かるでしょう。いま、この場に来て、また腹が立ってきた」
岐阜県御嵩町。県中南部、可児市の東側に位置するこの町は、古くは中山道の宿場町として栄え、明治以降は東濃地域の行政・文化の中心地だった。戦中から戦後にかけては、全国一の亜炭の生産地として沸いたが、1960年代になると、ほかのどこの「炭鉱の町」もそうであったように、町内の亜炭鉱は閉山に追い込まれ、町の活気は失われていく。
この町が、世間の耳目を集めたのは、「産廃処分場建設計画」とそれに反対する「住民投票」によってだった。そして、そのさなかに起きた「襲撃事件」で、当時町長だった柳川さんは瀕死の重傷を負った。
エレベーターホールの襲撃
1996年10月30日午後6時すぎ、あたりはすっかり暗くなっていた。
町役場での仕事を終えて帰宅した柳川さんは、自宅マンション4階でエレベーターのドアが開いたところで、エレベーターホールの左手壁際に立つ男と目が合った。その瞬間、頭に一撃。男は、もう一人の大柄の男とともに、棒状のもので柳川さんをめった打ちにした。そのあとの記憶は、途切れ途切れだ。
「暗がりから不意に一撃をくらったとき、『きたか!』という思いが頭をかすめたのは事実です。棒のようなもので何発も殴られて、そのたびにバシッという骨が砕ける鈍い音を感じました。よろけながら、からくも逃げたんですが、背後からあと1、2発、打撃を加えられていたら死んでいたかもしれない」
今回の取材で襲撃現場のマンションを訪れた柳川さんは、自らの杖を使って犯行の瞬間を再現しながら、こう語った。
頭はザクロのように割れて陥没し、右腕と鎖骨も骨折。折れた肋骨は肺に刺さって気胸の状態だった。手術は約13時間に及んだ。20年余り経ったいま、めった打ちにされた背中は大きく曲がり、右の肋骨や肩に痛みが残る。
当時、町長の秘書として柳川さんと常に行動を共にしていた田中秀典さん(62)は、この夜はたまたま散髪のため、別行動をしていた。行きつけの店で髪を切っている途中に、町長襲撃の一報が入る。瞬間的に、こんな思いが頭をよぎった。
警察からも気をつけろとは言われていたが、ついにきてしまったか――。
彼に限らず、町の誰もが直感したのは、事件の背景に産廃処分場建設計画をめぐる問題があるのではないか、ということだった。事件翌朝の新聞各紙は、「産廃行政に暴力の挑戦」「産廃へ慎重姿勢に反発?」などと大きく報じた。
二つの盗聴事件
柳川さんは、1995年4月の御嵩町長選で初当選した。東京生まれの柳川さんが候補者に担がれたのは、町との“縁”だった。義父は、戦前と戦後の20年ほど御嵩町長を務めていた。自身も、終戦間際に父の転勤で隣の可児市に転居し、御嵩町内の中学、高校で思春期を過ごした。その後、名古屋大学法学部を経てNHKに入局。社会部記者、ジャカルタ支局長、解説委員などを歴任し、間もなく定年というタイミングだった。
当時、既に岐阜県内の産廃業者によって、御嵩町内の木曽川沿いに産廃処分場の建設計画が水面下で進められていた。許認可権を持つ岐阜県は、建設推進の立場。町も、町長選直前に「業者から15年間で35億円の協力金を受け取る」という協定を交わし、受け入れに転じていた。
そこに「待った」をかけたのが、新町長の柳川さんだった。
下流500万人の水源となっている木曽川沿いに産廃処分場を造っていいのか――。そんな思いから、建設計画に慎重姿勢を貫いた。自ら「疑問と懸念」と題した質問状をまとめて県に提出し、手続きの一時凍結を訴えたのである。
町民たちの間で産廃問題はタブーの雰囲気が漂っていた。町議会の傍聴席には戦闘服の男が現れるようになり、柳川町政を批判する怪文書がばらまかれた。産廃問題の住民勉強会が開かれたお寺の前では、切断されたウサギの脚が見つかった。
さらに、衝撃的な事件が起きる。襲撃事件の2カ月ほど前、柳川さんの自宅電話が盗聴されていることが判明したのだ。後に岐阜県警は、この盗聴事件で元暴力団組員や右翼団体幹部ら計11人を逮捕。二つのグループが別々に盗聴器を仕掛け、それぞれが産廃業者とつながっていたことが法廷でも判明したが、襲撃事件との関連は明らかにならなかった。
「盗聴されていることを知ったとき、そこまでやる気か、と心底驚きましたが、あとから考えれば、それでも私は“のんき”なものでした」と柳川さんは言う。頭の中にあったのは、ほかの自治体でも話題にのぼるようになっていた「住民投票」だった。
「産廃問題をめぐる町民の気持ちは、単純ではありません。小さな町には、いろいろな人間関係があり、しがらみがある。産廃業者に本当に世話になっているから、と複雑な気持ちを吐露する人もいた。町の意思を示すには、どうしたらいいか。当時、ほかの自治体で住民投票の準備が進んでいたのは、報道などで知っていました。その動きを見ながら、私も一つの手法として言及するようになっていたのです」
当時、柳川さんの支援者たちの間でも、住民投票をするべきかどうかは意見が割れていた。それが、襲撃事件を機に一つにまとまっていく――。
声を上げた母親グループ
御嵩町で陶器関連の自営業をしていた田中保さん(82)に、襲撃事件の一報が入ったのは、帰宅して風呂に入っていたときだった。田中さんは、町長選のときの柳川選対本部幹部。後に、町に対して住民投票実施の条例制定を直接請求する際の住民代表となる人物である。
「町長が襲撃された、という電話が入って、慌てて風呂から飛び出しました。そして町長選の仲間たちが病院から戻ってくるのを待って、数人で集まった。町長は、なんとか命は取り留めたらしい。だけど、どうするか。このままではいかん。なにかしないと――緊迫感と危機感のなか、翌日も集まって話し合いました」
まずは、みんなに状況を知らせることが重要だと、町長の後援会、産廃反対の会などのメンバーに声をかけることにした。3日ほど後、数十人が集まって、事態への対応策を話し合った。そのときに住民投票の話が出た。
声を上げたのは、子育て世代の母親たちのグループだった。彼女たちは「みたけ産廃を考える会」を立ち上げ、産廃反対活動に取り組んでいた。
「ちょうど襲撃の数日前、私たちのグループの女性数人で柳川町長に住民投票はどうやったらできるのか、と相談に行っていたんです。そのタイミングで事件が起きた。そのせいで襲撃されたんじゃないかとも思いました。それで、みんなで集まったとき、もう住民投票しかないんじゃないですか、と投げかけると、ほかのグループの男性たちも一気に、やろう!という機運が高まったのです」
そう語るのは、同会副会長だった岡本隆子さん(65)だ。
「当時、私は幼い子どもを抱える一主婦でした。柳川町政になって産廃問題を知り、まずはどういうことなのか勉強しようと、数人の母親が集まったのが始まりです。町民が奮起した、というほどの話ではありません。ただ、このままモノ言えぬ町になってしまっていいのか、という思いでした」
防弾チョッキの署名活動
最近でこそ、住民投票は珍しくなくなったが、当時、自治体の条例によって住民投票が実施されたのは、全国でまだ2例しかなかった。
襲撃事件2カ月前の1996年8月、新潟県巻町が東北電力の計画する原発建設の是非について、全国初の住民投票を実施した。結果は投票率88%、その60%が原発に反対だった。翌9月には、米軍基地問題を問う全国2例目の沖縄県民投票が実施された。こうした動きは御嵩町にとって、大いに参考になった。
住民投票を実施するには、まずは有権者総数の50分の1以上の署名をもって住民投票条例の制定を請求することが必要だ。御嵩町の人口は約2万人。襲撃事件後の町民大会には800人が集まったのだから、見通しは悪くない。だが、そこに大きな“恐怖”が立ちはだかる。目立った動きをすれば、自分も狙われるかもしれない。
誰もが尻込みするなか、「住民投票を成功させる会」の会長に就いたのが、前出の田中保さんだった。
「自分は地元出身じゃないし、商売でしがらみがあるわけでもない。ただ、事態がめまぐるしく展開するなか、何が起きても不思議はない、という怖さはありました。住民投票反対と大声で叫ぶ人が町の中にも外にもいた。“万が一”があってはいけない。そこで署名集めの戸別訪問は2人以上で、原則として男性メンバーが行くことにしました。条例請求者になる私自身、防弾チョッキを着て動き、署名の原簿はごみ箱の底に隠していました」
襲撃事件を機に、新聞・テレビでは連日、町の動きが報じられ、町民たちも自主的な勉強会を開くなど産廃問題への関心は高まっていった。「ぜひ署名させてほしい」。そんな町民たちの積極的な声も聞かれるようになった。
ふたを開けてみれば、1週間程度で有権者総数の50分の1以上にあたる1千人を超す署名が集まり、町役場に提出された。このころ、柳川さんはまだ入院中。そして町議会で条例案は可決され、産廃処分場計画の是非を問う住民投票の実施が決まったのである。
町長と町役場の調整役として奔走した前出の田中秀典さんが当時を振り返る。
「とにかく町役場はてんやわんやでした。経験がないことで分からないことだらけ。だけど、多くの署名が集まり、襲撃事件で全国的にも注目を集めている。役場としても、なんとしてもこれをスムーズに混乱なく進めなければいけないという思いでした」
初めから一枚岩だったわけではなかった町役場も、動き始めた。
「正直なところ、柳川町長が誕生した当初は町役場のなかでもあつれきはありました。産廃処分場はできるものとして進んでいたわけですから、なぜ急に反対するのか、と。だけど、襲撃事件で風向きが変わった。町の空気が変わり、役所のなかでも『おかしいんじゃないか』とモノが言える雰囲気になった。職員も一丸となってまとまったのです」
住民が示した「説得力のある数字」
1997年6月22日、住民投票が実施された。投票率87.5%。産廃処分場計画に反対が1万373票(79.6%)と、賛成の2442票(18.7%)を圧倒的に上回った。
「直近の町議選が約80%でしたから、投票率70%は超えたいと思っていました。産廃計画に『ノー』といえる説得力がある数字を町民が示してくれた」と柳川さんは言う。
産廃計画の決着までには、その後も長い年月がかかった。
柳川さんは2007年4月末、3期12年で町長を退任。当事者の県・町ともにトップが代替わりしてしばらくした2008年3月、御嵩町、岐阜県、業者の3者会談で、業者が事実上の計画取り下げを表明。建設推進の立場で柳川さんと対立してきた岐阜県も矛を収めた。そして、2011年9月に予定地が岐阜県に寄付され、長きにわたった紛争は終わりを告げた。住民投票から14年が経っていた。
その後の町はどうなったのか。
「よく住民投票は地域を分断すると言われますが、実は、ここも一時はそうだった」と田中保さんは言う。
地元の生まれではない自分も、商工会議所の先輩らとしこりは残った。仲間たちも人間関係でいろいろあったようだ。20年経った今となれば、世代も変わり、そうした話も聞かなくなった。それとともに、あのころの町の熱気を感じることもなくなった。
女性グループの岡本さんは、その後、町議になった。今年6月30日に投開票された御嵩町議選で再選を果たし、現在6期目だ。
「住民投票の直後は、環境問題などについていろいろな住民グループができて、ものすごい活気でした。だけど、関心はだんだんと薄れていくものです。それでも、いまでも町のみんなに、自分たちが成し遂げた、という誇りはあると思う。いざとなったら、また一致団結できる町だと私は思っています。そのためにも、あのときの精神が風化しないように、言い続けていきたい」
住民投票の「意味」
現在、住民投票の意味が改めて問われている。今年2月、沖縄県で実施された、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古移設をめぐる県民投票では、反対が72%を占めた。しかし、住民投票の結果に「法的拘束力はない」として、政府は埋め立てを継続。沖縄県民の民意は無視された形になっている。
御嵩町の住民投票と沖縄の県民投票では、問われたテーマも規模も違う。それでも柳川さんは、こう語る。
「住民投票は法的拘束力がないと言われますが、それは間違いじゃないかと思っています。条例は法体系の一部であり、いわば地域限定の『法』です。議会を通った条例による住民投票なんですから、国などに対する“法律上の拘束力”はなくても、それを制定した自治体に限って法的効力がある。そうでなければ、条例の意味がない」
ただし、住民投票には絶対に不可欠な条件がある、と柳川さんは続ける。
「それは、判断材料となる情報をプラス面もマイナス面も全面的に公開し、有権者たちが十分に議論する時間を与えることです。御嵩町の住民投票で私は、条例告示から投票日までの5カ月間で、町内で41回の説明会を開いて産廃を受け入れるメリットとデメリットをすべて話しました。そうした手間を省いて、特定の政策への信任を得るためだけに住民投票を実施するのは、逆に危険。民主主義をゆがめるのは、目に見える暴力だけではありません。英国の元首相チャーチルの言葉にもありますが、民主主義は、時間も手間ひまもかかる能率の悪い制度です。それでも、これまでの政治制度のなかでもっともいい。きちんと守っていかなければならないものだと思っています」
襲撃事件は、2011年10月30日に時効が成立した。岐阜県警は殺人未遂事件として捜査を続けたが、犯人につながる手がかりはついに出てこなかった。産廃計画との関係も明らかになっていない。いまも襲撃事件と産廃計画との関連を指摘する声があることについて、産廃業者は取材に対して「当時の役員、株主がすべて入れ替わっているため、特にコメントはございません」と返答している。
「住民投票で示された『産廃反対』の民意を成就させることができた。木曽川の水も守った。もう、あの世への土産もできたよ」
柳川さんが最近、こうつぶやいたことがある。しかし、本当にそれでいいのか。
――未解決事件のままでいいんですか?
すると、少し間を置いてこう答えるのだった。
「襲撃事件の犯人は、カネで雇われた人たちだろう。恨んでも仕方ないよ。もう時効で刑事責任は問われないので、今からでもいいから名乗り出て真実を語ってほしい。あの世に行く前に真実を知りたい。それを知るまでは死ねんな、やっぱり」
今西憲之(いまにし・のりゆき)
ジャーナリスト。1966年、大阪府生まれ。大阪を拠点に週刊誌や月刊誌の取材を手がける。著書に『内部告発 権力者に弓を引いた三人の男たち』(鹿砦社)、『私は無実です 検察と闘った厚労省官僚 村木厚子の445日』『福島原発の真実 最高幹部の独白』(ともに朝日新聞出版)など。
鈴木毅(すずき・つよし)
1972年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒、同大大学院政策・メディア研究科修了後、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」副編集長、「AERA」副編集長、朝日新聞経済部などを経て、2016年12月に株式会社POWER NEWSを設立。