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ありふれた言葉だからこそ強く尊い―― 没後12年、人々の魂を揺さぶり続けるZARD・坂井泉水の世界

2019/05/25(土) 07:14 配信

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ZARDのボーカル・坂井泉水さんが亡くなって今年の5月27日で12年になる。享年40。1991年にデビューして、代表曲「負けないで」などは今もカラオケの定番ソングとして親しまれている。まさに平成を駆け抜けたアーティストだった。彼女の素顔、今も歌い継がれる理由を探った。(ライター・伏見学/写真・菊地健志/Yahoo!ニュース 特集編集部)

想定を上回ったデビューシングル

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「あまり印象に残らない、特徴がほとんどない女性でした。アーティスト然とした雰囲気も感じなかったので、『この子、本当に大丈夫かな?』と思いましたね」

デビュー時からZARDのレコーディング・ディレクターを務めた寺尾広氏は、坂井さんと出会ったときの印象をこう話す。

寺尾広氏。現在は大阪のレーベル会社・ギザで制作部部長兼チーフディレクターを務める(撮影:菊地健志)

ただ、いざ歌いだすとよく通る力強い声だったので、もしかしたら5万枚は売れるのではないかと思ったという。5万枚というのは決して下に見ているわけではない。坂井さんが所属したレコード会社のビーイングは黎明期で、当時まだアーティストがほとんどいなかった。5万枚という数字は期待の表れだった。

結論から言うと、1991年2月10日に発売されたデビューシングル「Good-bye My Loneliness」の売り上げ枚数は約25万枚。想定を上回るヒットだった。

その後もヒットを連発し、100万枚以上の売り上げを記録したのは、シングルとアルバムを合わせて14作品。全作品の売り上げは累計3763万枚を超えている。オリコンが2019年4月11日に発表したアーティスト別の「平成セールスランキング」によると、安室奈美恵さんや宇多田ヒカルさんを上回る第8位だ。

デビューシングル「Good-bye My Loneliness」のジャケット写真。着ている革のジャンパーはスタッフからの借り物だという(撮影:菊地健志)

164万枚を突破した最大のヒット曲「負けないで」は、恋愛・応援ソングとして今なお国民的な人気を博している。日本テレビのチャリティー番組「24時間テレビ 愛は地球を救う」のマラソンシーンでは毎年必ずと言っていいほど流れるほか、就職活動のテーマ曲としても親しまれている。さらには高校の英語の教科書にも歌詞が採用された。

デビューから28年、亡くなってから12年経った今も、坂井さんの歌はなぜ人々の胸を打つのだろうか。

常に何かを書いていた

坂井泉水(本名・蒲池幸子)さんは1967年2月6日、神奈川県平塚市で生まれた。小学生のころに秦野市へ移り、丹沢山地のふもとにある自然豊かな地で育った。中学生のときは陸上部の短距離走選手として県記録を打ち立て、高校時代も硬式テニス部で汗を流すスポーツ少女だった。一方で、幼いころから母親が弾くオルガンで歌っていたり、ピアノを習ったりと、音楽は常に身近な存在だった。中学校ではギタークラブでも活動した。ジョン・レノンやシャーデーといった海外アーティストが好きだった、と後にインタビューで答えている。

2004年、ライブで歌う坂井さん©️Being

短期大学を卒業してから会社員として2年ほど働き、その後、モデルやレースクイーンといった芸能関係の世界に身を投じた。その中でいつかは歌手になりたいという夢を持ち続け、1990年8月、ビーイングの所属アーティストであるB.B.クィーンズのバックコーラスのオーディションに参加した。落選したものの、ビーイングの創始者で音楽プロデューサーの長戸大幸氏の目に留まり、坂井さんをメインボーカルにしたロックバンドが構想された。それがZARDである。当初はバンドの予定だったが、結果的に坂井さんのソロプロジェクトになった。

デビューが決まってから長戸氏は坂井さんに自ら歌詞を書くことを課した。坂井さんは毎日紙に言葉を書き続けた。移動中、レコーディングの合間など、暇さえあればペンを走らせた。寺尾氏が振り返る。

「常に何かを書いていましたね。1行だったり、2行だったり。あるいは数ページにわたって書いた文章も。そうかと思えば、例えば『きっと忘れない』のような一言だけのフレーズもありました。普通はノートに書くのでしょうが、坂井さんはレポート用紙やメモ用紙などその場にある紙に書くことが多かったですね」

基本的な作品作りはこうだ。まず長戸プロデューサーの元に届けられた数々のデモテープの中から曲が選ばれ、曲に合わせて坂井さんが作詞する。ただ坂井さんの作詞する方法は変わっていて、曲に対して一から書き下ろすことはしない。レポート用紙などに日ごろから書きためてあるものの中から、まるでパズルのようにメロディーに言葉を当てはめていくのだという。寺尾氏が続ける。

「曲のデモテープをもらうとまず、サビの出だしのメロディーにはこういう日本語や英語が合うというのを最初に決めることが多かったですね。歌詞全体も今まで書いていた言葉を当てはめて一つのストーリーになるように作っていました。起承転結を綿密に考えてやったというよりは自然と成立している感じ。ロジックになりすぎていないから読み手に(意味を自分なりに解釈できる)余白があるのです」

坂井さんは「パズルのように言葉をメロディーに当てはめていた」と話す寺尾氏(撮影:菊地健志)

デビューしたのが24歳のとき。当時はまだモデル事務所で契約した仕事がいくつか残っていたため、明け方までレコーディングした後に、朝一番の電車に乗って仕事に行く過酷な状況も続いた。

弱音を吐かず、文句も言わずに音楽活動に集中する坂井さん。次第に彼女の曲が注目されるようになり、テレビにも出演するようになった。そしてデビューから2年後の93年1月、今なお多くの人たちの魂を揺さぶる名曲「負けないで」が生まれた。

「負けないで」はこうして誕生した

「負けないで」は当初、アルバム『揺れる想い』(93年7月発売)に収める候補曲の一つだった。織田哲郎氏が作曲したメロディーが坂井さんの元に届いたのが92年10月。そこから約2週間で歌詞をつけて、10月27日に最初の歌入れをしたところ、関係者一同、これはいいとなった。長戸氏も「負けないで」という言葉に、世の中の多くの人たちの背中を押すような曲になるだろうと確信したという。そこでアルバムの中のひとつではなくて、急遽シングル曲として仕上げることになった。

「揺れる想い」リリースの93年は、当時の皇太子が結婚された年でもある(写真:ロイター/アフロ)

デビューから亡くなるまで坂井さんの曲作りに携わったレコーディング・エンジニアの島田勝弘氏は、坂井さんのレコーディング風景を覚えている。

「始まるのは夕方からで、終わるのは深夜、ときには朝までやっていることも多かった。始まるとブースと調整室の間のカーテンを全て閉め切って歌っていたのを思い出します」

島田勝弘氏。現在は音楽制作スタジオBIRDMAN MASTERINGの代表取締役を務める(撮影:菊地健志)

それは歌に集中するためなのか、極端にシャイだったという彼女の性格ゆえなのか。とにかく坂井さんはブースの中で一人きりでマイクに向き合った。

「負けないで」のチャート初登場は2位。そして4週目でZARD史上初めての1位になった。

性別を超えて愛された秘密

坂井さんの歌詞にはどのような特色があるのだろうか。

『尾崎豊の歌詞論』『Jポップの日本語―歌詞論』などの著作があり、歌詞論を専門とするライターの見崎鉄氏は、坂井さんの歌詞には女性ならではの言い方が多いと分析する。

「日本語は語尾にその人の特徴が表れます。『そうだぜ』と言えば男性だし、『そうじゃ』と言えばお年寄りが話しているとすぐ分かります。役割語と呼ばれるものです。坂井さんの歌詞には女性特有の言い回しが多く、それが語尾によく表れています」

見崎鉄氏(撮影:伏見学)

「負けないで」を例にとってみよう。この曲の歌詞の語尾には「~でしょ」「~ね」「~わ」などの女性語がある。見崎氏は、こういう典型的な女性語は語り手の輪郭をはっきりさせるために創作物にはよく出てくるという。ただし、この歌には一見そうとは思えない部分にも女性的な表現が用いられている。終助詞「て」の使用法である。サビはこうなっている。

負けないで もう少し
最後まで 走り抜けて
どんなに 離れてても
心は そばにいるわ
追いかけて 遥かな夢を

「走り抜けて」「追いかけて」と、フレーズの語尾に「て」が使われている。「てください」などと言い切らず、「て」で止めるところに特徴がある。見崎氏によると、この場合の終助詞「て」は軽い命令(お願いや配慮を含む)を意味する。主に親しい間柄で用いられるもので、公的な場でこうした言い方をためらう男性は多いという。

坂井さんは女性っぽい歌詞を無意識に書いてきたのではないかと見崎氏は指摘する。その秘密は、ZARDという名前に隠されているという。ZARDは濁音中心のざらついた感じの響きを持ち、「Z」の文字も入っていてカッコよく、男性向きである。坂井さんの持つ雰囲気とはベクトルが逆だ。

「ZARDという名前の男くささを中和しようとして、無意識で女性的な言い回しを多用したのかもしれません。ZARDというパッケージで提供される歌と、歌い手の容貌や歌詞の内容にギャップがあることで不思議な深みが生まれます。もし坂井泉水の名前のままだったら、不思議さは薄れたと思います。女性的なものと男性的なものがうまく組み合わさったことが、性別を超えて幅広い層に支持された一因ではないでしょうか」

坂井さんはデビューから一貫してビジュアルの露出があまりなくて、正面からの写真は少ない。レコーディング・ディレクターの寺尾氏はその理由として「顔立ちが良すぎた」と証言する。男性ファンが恥ずかしがってCDを買いにくかったり、女性ファンから敬遠されたりするのを懸念したという。外見の露出をあえて抑え、ZARDという名前にしたことで、逆に女性的な歌詞が際立つことになった。

ZARDのジャケット写真。正面から撮られたものはほとんどない(撮影:菊地健志)

また、「負けないで」が応援ソングとして長く支持されている一端は歌詞にあると見崎氏は言う。

「何について負けるなというのか、はっきり限定していません。ですから、何にでも、誰にでも応用が利きます。加えて『もう少し』だけ頑張れとも言っていて、無理強いするキツさがないんです。それが応援ソングとして受け入れやすく、幅広い支持を集めることになった理由ではないでしょうか」

石川啄木との共通点

歌手デビューする前から文章を書くことが好きだった坂井さんは、歌人の石川啄木のファンだったという。

啄木の短歌を現代語に翻訳した『石川くん』などの著作がある歌人の枡野浩一氏は、坂井さんの歌詞を「心から思っていることをそのまま言葉にしている」とみる。刺激的なものは皆無で、ほとんどが無味無臭、匿名性の高いものだという。

「きっと本人も優しくて、控えめな人だったのではないでしょうか。既存のものに対するアンチもないし、素直に『負けないで』と思っていたのでしょう。私はこれだけピュアな詞を書くのは難しいと思う。本心でなければ、かえって不自然なものになってしまいますから」

歌人の枡野浩一氏(撮影:伏見学)

坂井さんの歌詞で使われる言葉は、毒づいたものはなく、はやりものでもない。ありふれたものだが、枡野氏はそこに啄木との共通点も見いだす。

「啄木も人間としてまっすぐで、自分の気持ちをそのまま素直に書いていた人でした。だから、啄木のような短歌をさあ作れと言われても難しいです。坂井さんが啄木に惹(ひ)かれていたのはとてもよく分かる気がします」

まっすぐで、素直な生き方を保つ人は本当に強いと枡野氏は言う。

「多くの人たちはすぐに社会や他人に対して意地悪な見方をしてしまう。ネットにもそういう言説があふれています。だからなおさら今、坂井さんのありふれた言葉を尊く感じます」

日本人の情緒に訴えかけるグルーヴ感

坂井さんは歌詞だけでなく、歌い方にも特徴があった。レコーディング・エンジニアの島田氏が解説する。

「坂井さんはアタック(起声、出だしの音)をきちんと付けながらも、少し後ろのタイミングを強調して歌うという独特さがあります。アタックとはシンセサイザーの専門用語で、音が鳴ってから最大音量になる部分のことで、鍵盤を離して音が鳴り終わるまでの『リリース』という言葉とセットでよく使います。坂井さんはアタックからリリースまでが長い。例えば、『きっと忘れない』を『きいっと忘れない』のように、『き』のあとに母音の『い』を入れて、後ろに引っ張ります。『揺れるう想いい からあだじゅう感じてえ(揺れる想い 体じゅう感じて)』とかもそう。歌詞だけ見ると母音の部分はありませんが、歌を聴くと細かく入ってくるのです」

島田氏(撮影:菊地健志)

こうした坂井さんの特徴的な歌い方について、レコーディング・ディレクターの寺尾氏は、ある種「演歌的」と指摘する。

「坂井さんは、見た目も声の感じもあっさりしているけど、ゆったりと歌う演歌的なグルーヴ感があります。日本人の情緒に訴えかけるようで、それがいつまでもZARDの音楽が色あせない理由かもしれません」

寺尾氏(撮影:菊地健志)

音の作り方にも特徴があった。演奏する楽器の数が多く、メロディーの中に隙間がない。弦やコーラスなど全部の音のハーモニーを大事にしていたという。

実は、そういったアレンジにも理由があった。寺尾氏が説明する。

「坂井さんは音程がすごく安定しているタイプではなく、ハーモニーに支えられて威力を発揮する人でした。16ビートのドラムループの中で歌うよりは、コードや楽器がいろいろと入っているほうがZARDらしいし、坂井泉水というアーティストの魅力が十分発揮できました」

音作りの細部にこだわるため、途中から録音機材のマイクも替えた。彼女が愛用したのは、ドイツやオーストリア製の真空管マイクである。なんと1950年代に作られたものだという。真空管にすることで音がじんわりと優しく広がっていく特徴があるそうだ。

「ZARDは“平成に生きる昭和の女”をコンセプトにしていて、(音楽やファッションなどの)はやりのスタイルを取り入れることもありませんでした。トレンドを重視したらすぐに古びて、飽きられてしまいます。これもZARDがエバーグリーンになったゆえんかもしれません」

1990年代は、バブル崩壊、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、山一證券の経営破たんなど、総じて暗い過去として語られることが多い。坂井さんは、そんな時代に歌で大勢の人たちを明るく鼓舞しながら、全力で走り抜けた。

坂井さんの命日である5月27日には毎年、東京と大阪のビーイング社屋に献花台が設けられる。坂井さんが大好きだったカラー クリスタルブラッシュの花や、曲名にもなったひまわりの花などを持った大勢のファンがここを訪れては、彼女の写真の前で手を合わせ、祈りを捧げる。感極まって涙を流す人も少なくないという。令和という新しい時代を迎えた今も、坂井さんの歌は人々の心の中で永遠に生き続けるのだ。

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伏見学(ふしみ・まなぶ)
1979年生まれ。神奈川県出身。記者・ライター。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、2019年5月からフリーランス。

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