札幌市円山動物園にやってきた4頭のアジアゾウが3月12日に一般公開される。ミャンマーから野生のゾウが4頭一挙に導入されるのは珍しい。ワシントン条約で国際取引が厳しく規制されているゾウをなぜ導入することができたのか。なぜ4頭なのか。背景を取材した。(ライター・西所正道/Yahoo!ニュース 特集編集部)
寝転ぶゾウが見られるゾウ舎
昨年11月30日、4頭のアジアゾウを乗せた貨物専用機が、北海道の新千歳空港に到着した。
生息地であるミャンマーからやってきたのは、メス3頭とオス1頭。メスのうち2頭は母子で、27歳と5歳。もう1頭は15歳。そして10歳のオス。札幌市円山動物園に新築されたゾウ舎に向かう。
ゾウと一緒に貨物機に搭乗していた同動物園園長・加藤修さん(52)は、気温0度の空港に降り立ち、雪が降っていないことに胸をなで下ろした。もう少し時期が遅かったら、道路に雪が積もって空港から動物園への輸送が困難になるところだった。もともとは9月に予定されていたが、ミャンマーの行政担当者がなかなか輸送日を決めない。これ以上は待てないと園長自ら直接交渉に乗り込んだ結果、輸送の手はずが整えられたのだった。
ヤンゴン国際空港を発つときの気温は30度余り。なぜそうまでして寒い北海道にゾウを連れてきたのか。しかも4頭も。そこからは、変わりつつある動物園の姿が見えてくる。
2月初旬。一般公開前のゾウ舎を取材することが許された。この日の札幌市の最高気温は氷点下4度。降り積もる雪の上を歩いてゾウ舎に向かう。ゾウ舎は屋外エリアと屋内エリアに分かれているが、屋外は雪におおわれている。ゾウは屋内にいるという。
ゾウ舎の中に入ると暖房が利いていて暖かい。干し草の香りがほんのり漂う。広い飼育舎を眺めていると、飼育展示課の朝倉卓也さん(48)がこう耳打ちしてきた。
「寝ていますよ、ゾウが地面に。これが見られるのは、かなりレアかもしれないです」
朝倉さんの視線の先を見ると、子ゾウがゴロンと横たわっている。
「床がコンクリートのゾウ舎ではまず見られない行動だと思います。コンクリートだと立って寝るのが普通です。ここは砂が深さ1メートルにわたって敷き詰められているので、ゾウはミャンマーにいたときのように安心して眠れるのです」
屋内にも水深3メートルのプールがあり、ゾウたちは思い思いに水浴びをする。天井近くには湿度を調節するためのミスト発生装置が備えられている。ゾウが快適に暮らすための気遣いが至る所に施されている。
円山動物園でゾウを飼育するのは11年ぶりだ。2007年にアジアゾウの花子が死んでゾウがいなくなったあと、市民から「円山動物園にゾウを呼ぼう」という声が上がる。2012年には3万筆に近い署名が集められ、札幌市長に手渡された。それから実際にゾウがやってくるまでに6年かかったことになる。
高齢化と、新規導入の困難さ
日本の動物園のゾウは年々減っている。
2013年~2018年に死亡したゾウは、確認できただけでも20頭。その中には、アフリカゾウ「はなこ」を飼育していた福岡県の大牟田市動物園や、アジアゾウ「はな子」の東京都・井の頭自然文化園、アジアゾウ「ラニー博子」がいた大阪府・天王寺動物園など、そのゾウが死んだことによって「ゾウのいない動物園」になった園もある。
動物園の人気者であるゾウがいなくなると市民から「ゾウを入れてほしい」「ゾウがいないとさみしい」という声が上がるが、大牟田市動物園のように、ゾウにとってよい環境で飼育できないから「ゾウを飼育する予定はありません」と表明する動物園もある。
一方、近年で新たにゾウを導入したのは、2014年にラオスからアジアゾウ4頭を迎え入れた京都市動物園など数少ない。
日本動物園水族館協会のデータによれば、全国の加盟施設でのゾウの飼育数は、ピーク時の1985年にはアジアゾウ、アフリカゾウを合わせて141頭だったが、2018年末には114頭に減少した。
ゾウの新規導入は非常に難しい。
円山動物園に花子が来たのは1953年。長野県で開かれた世界動物博覧会に来ていたゾウを193万円で購入した。このように、戦後しばらくの間は商取引ができた。ゾウは生息地で捕獲され、動物園などに売られたり、動物園と動物園の間でも売買されたりしていた。しかし、1973年にワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)が採択され、1980年に日本が同条約を批准すると、事情が一変する。
同条約により、絶滅危惧種に指定された動物の商取引が禁止され、また、動物園で展示するためであっても、学術研究の目的で、当該取引が種の存続を脅かすことがないというお墨付きを輸出・輸入両国の科学当局から得ること、輸出許可書・輸入許可書の発給を受けることなどの条件をクリアしなければ輸入できなくなったのである。
飼育下での繁殖もうまくいっていない。国内のゾウの出産例は22例。生まれたゾウのうち現在も生存しているのは13頭。個体数が少なく相性のよいパートナーを探すのが難しい。繁殖に成功しているのは、国内最多飼育で出産成功例の多い千葉県の市原ぞうの国、1986年に国内初のアフリカゾウの繁殖に成功した群馬サファリパーク、インドゾウの繁殖に成功した神戸市立王子動物園、アフリカゾウの繁殖に3度成功している愛媛県立とべ動物園など限られている。
2015年から円山動物園のアドバイザー(札幌市環境局参与)を務める小菅正夫さん(70)には、旭川市旭山動物園の飼育員だった若いころの苦い経験がある。
当時、旭山動物園ではオス1頭、メス1頭のアジアゾウを飼っていたが、オスが急死。当時の園長はマルミミゾウのメスを導入した。
日本の動物園では従来、動物の身体的な特徴を見せる「形態展示」が主流だった。種の違いを見せることを主眼とする考え方だ。動物本来の生息環境を再現したり、繁殖させて種の保存に努めたりするという意識は薄かった。小菅さんはこう振り返る。
「いま考えればおかしなことをやっていたものです。当時は、2種類のゾウを並べて比較できる施設は他にないと、形態比較展示にマルミミゾウを導入する意味を見いだそうとしていた。メス同士を飼育して、繁殖のことなんてまるで考えていない。生きることの意味は命をつなぐことという大原則を踏みにじっていた」
のちに小菅さんが調べると、日本の動物園では飼育がしやすいという理由から、メスばかりを複数飼育する例も珍しくなかった。今もゾウを飼う動物園44園中、アジアゾウで11園、アフリカゾウで5園が、雌雄どちらかの単性飼育を行っている。
なぜメス3頭、オス1頭なのか
つがいで飼えばいいというわけでもない。ゾウの場合、群れで飼うことが繁殖を成功させる上で重要な条件だ。小菅さんはその理由をこう解説する。
「野生の環境では、メスは30頭ぐらいの集団で生活しています。オスが交尾しようと近づいてきても、メスの長老がオーケーしなければダメ。ゾウはすごく繊細なんです。オスと1対1の状況ではメスは怖くて、それだけで生理のリズムが乱れてしまうぐらい。だからメスの集団によって守られている状況が整って初めて、オスを受け入れるわけです」
さらに、繁殖を可能にするには、生息地に近い環境を施設の中で再現する必要がある。
2012年に札幌市が行った調査によると、繁殖実績のある欧米の動物園を参考にすると、ゾウ舎建設に20億円かかることが分かった。小学校1校分の建設費に相当する金額だ。仮に3頭導入するとして、餌代や光熱費などにかかる費用が年間2000万円。
ゾウの単独飼育や単性飼育が多い日本の動物園は、虐待的な環境だと国際的に批判されている。そのような状況で新たにゾウを導入するためには、これらのハードルをクリアして、来園者に娯楽を提供するだけでなく、動物たちが快適に暮らせるように生息地に近い環境を用意し、学術研究を行い、種の保存に貢献することを証明しなければならないのだ。
円山動物園はこれに正面から取り組んだ。
札幌市民の熱意が取り組みを後押しした。札幌市は2012年に、ゾウ舎建設にかかる費用などを明示した上で、18歳以上の市民1万人にアンケートを実施。するとゾウを飼うことに賛成が48%、反対が26%になった。
タイミングも味方した。アジアゾウの生息地はインドから東南アジア各国に分布している。日本の動物園にゾウを提供してくれる国を探さなければならない。ちょうど2014年は日本とミャンマーの国交樹立60周年に当たっていた。そこでミャンマーとの間で記念事業とすることになったのだ。その際、動物交換という方法がとられた。ミャンマーからゾウ4頭を譲ってもらう代わりに、円山動物園からヤンゴン動物園にオットセイ4頭、シマウマ3頭、キリン2頭、ジャガー1頭、フラミンゴ20羽を寄贈した。
どんなゾウを選び、どんな態勢で飼育すればよいのか。次なる課題をクリアするために白羽の矢を立てられたのが、前出の小菅さんである。
小菅さんはアジアゾウの生息地の一つ、インドネシアのスマトラ島を訪ねたとき、野生のゾウの生態を長年見てきた人に聞いてみた。「繁殖が可能な最少の飼育ユニットは何頭ですか」。その人の答えは「オス1頭に対し、メスが3頭」。この組み合わせは、小菅さんがそれまでに調査した情報とも一致していた。そのとき4頭の導入が決まった。
円山動物園にやってきたゾウは現在、メス3頭とオス1頭は別々のエリアで暮らしている。まずはメス同士の結束を強め、その後にオスを本格的に合流させる予定だ。同時に、ゾウにまつわる細かなデータを収集し、北海道大学獣医学部やミャンマーのネピドー大学と共同研究を進めることになっている。
ゾウ舎を動物園変革のシンボルに
ゾウはとにかくよく食べる。飼育担当の小林真也さん(42)によると、「ゾウは1日17時間ほどを食べることに費やす」という。餌は干し草やサトウキビ、ニンジン、木の実、オレンジ、リンゴ、バナナなど。食べる量が桁違いで、干し草だけでも体重2800キロの母ゾウで1日100キロ、2380キロの15歳のメスでも60~80キロは食べる。
「餌を土の中に埋めて掘り起こして食べるようにしたり、壁の向こう側に餌を置いて、壁にあいた穴から鼻を入れて食べるようにしたりします。天井から牧草をぶら下げたり、鼻を伸ばしてようやく届くぐらいの高い場所に置いたりもしますし、日によって違う食べ物を置いたりしています」
前出の朝倉さんは、ミャンマーとの交渉役として何度も現地を訪れた。朝倉さんは「ゾウというとサバンナをゆったり歩くイメージがあると思いますが、それはアフリカゾウのものです」と前置きすると、こう問いかけた。
「では、アジアゾウはどこで暮らしていると思いますか?」
答えは「森の中」。朝倉さんは、ゾウが暮らす山奥まで行き、伐採した木をゾウに運ばせているところを見たことがある。温暖なミャンマーにあって、朝の気温が10度近くにまで下がるような山の中だ。ゾウたちは、険しい坂道を足首を柔らかく曲げて上っていく。
「日本の動物園で飼育されているゾウは、硬い地面でずっと立っているので、体重を支えるために脚をまっすぐにしています。それがいちばん負担がかからないからです。でもそのうち脚が曲がらなくなる場合があります。円山動物園のゾウ舎では、いずれ施設の中に傾斜を付けた坂をつくって、本来の足首の柔軟さも見せていきたいですね」
ミャンマーからゾウが来ると決まって間もなく、円山動物園は試練に見舞われた。2015年、コツメカワウソがプール内の濾過取水口に吸い込まれ溺れて死亡。その後も、繁殖のためにマレーグマのメスとオスを同居訓練している最中にオスがメスを攻撃して死亡させてしまうなど事故が相次ぎ、厳しい批判を浴びた。
その反省から円山動物園では「動物専門員」職を2016年に新設。試験に合格した人だけが飼育員となれる体制を敷いた。採用試験を受けるには、大学や専門学校で動物の飼育について学んだり、動物園や水族館で2年以上働いたりした経験があることが条件となる。直近2年は募集人数に対して15倍前後の応募があった。小菅さんはこう言う。
「『円山動物園は変わらなきゃ』というタイミングでゾウ舎ができたのは大きな意味があるんです。動物園のあり方が変わる、飼育の仕方も変わる——。ゾウ舎は挑戦のシンボルになればいいと思っています」
ゾウの飼育担当は5人。うち2人は女性だ。4月からもう1人加わる。男性は飼育歴30年のベテランと、前出の小林さんのような中堅だが、女性は飼育を始めて1〜2年の若手だ。
女性が活躍するチャンスが広がったのは、ゾウの飼育方法を「準間接飼育」にしたことが大きい。
従来は、ゾウと同じ檻の中に飼育係が入って行う「直接飼育」だった。日本でも主流の飼育法だったが、ゾウの鼻が当たっただけで大ケガや死亡につながることもあり、危険度が高い。一方、準間接飼育では、飼育員はゾウと同じ空間には入らず、柵越しに世話をする。足の爪を手入れする削蹄や採血といった健康管理を行うために、飼育員が出した指示で体を回転させたり脚を上げさせたりする訓練が必要だが、直接飼育に比べて危険度は格段に低い。
飼育チームを編成した朝倉さんはこう話す。
「4頭のゾウの飼育は1人では難しい。飼育員全員で話し合わなければ進められません。コミュニケーション能力に長けた人を探していくと、女性のほうが向いているのです」
経験よりも熱意や責任感を買った人選だったのだろうが、その起用はみごと的中したようだ。朝倉さんはこう話す。
「『ちょっと休めよ』と言いたくなるぐらいみんな熱心で、ゾウへの思いが溢れ出すような感じで話し合っています」
飼育歴2年目の野村友美さん(25)が「アイデアを提案すると、『ともかくやってみよう』と前向きに聞く耳をもってくれるので仕事がやりやすいし、面白くなります」と意気込みを語れば、新人の鎌田祐奈さん(25)も「ゾウに何をしてあげたら喜ぶかなと毎日考えています」と前向きだ。
飼育チームの面々に飼育方法を教えたのは、世界的に著名なゾウ飼育の専門家、アラン・ルークロフトさんである。ゾウ舎の設計も手掛けた彼は、アメリカから来日したとき、飼育員たちをこう励ましたという。
「君たちはゾウ飼育のパイオニアになるんだ」
来年の春ごろには、東京都日野市の多摩動物公園でも、準間接飼育の新しいゾウ舎がオープンする予定だ。円山動物園の試みと併せて、日本のゾウの飼育を変えていくインパクトを持つだろう。
今後、アメリカのアランさんや、ミャンマー森林局、研究で連携する北海道大学獣医学部ともデータを共有しながら、繁殖の試行錯誤が繰り返される。順調にいけば5年後ぐらいには「円山動物園でゾウの赤ちゃん誕生」というニュースが聞けるかもしれない。
西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年、奈良県生まれ。京都外国語大学卒業。雑誌記者を経て、ノンフィクションライターに。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』『絵描き 中島潔 地獄絵1000日』がある。