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三浦憲治

静岡の高校生の部屋からドイツ巨大フェスまで―「電気グルーヴ」破天荒な2人の30年

2019/01/21(月) 08:00 配信

オリジナル

2019年、結成30周年を迎える電気グルーヴ。90年代以降の日本に「テクノ」「クラブ」というカルチャーを根付かせ、音楽シーンに大きな影響を与えた。「Shangri-La」などのヒット曲を生み出したほか、海外進出を果たし、ヨーロッパのテクノ・シーンでも知られる。石野卓球はDJ、ピエール瀧は俳優と、個人でも活躍してきた。30年、破天荒な2人が共に歩める理由は――。(取材・文:兵庫慎司/撮影:三浦憲治/Yahoo!ニュース 特集編集部)

(文中敬称略)

高校1年生、部活帰りに自転車を走らせて

ピエール瀧(左)と石野卓球(右)

石野卓球(以下、卓球)とピエール瀧(以下、瀧)は、2人とも今年51歳。メンバーである前に友だちである、というスタンスのまま、30年以上一緒に音楽をやってきた。曲作りの合宿に行くのも2人、飲みに行くのも2人。

なんでそんなに仲が良いのか。

「みんなそう言うんだけど、『どうしてその女房だけずっと抱くんですか?』って聞かれてるような感じ。なんで他のバンドはそんなに仲悪いの? 逆に聞きたい」

卓球「パートがないからじゃない? 楽器とかの。瀧も、パフォーマーではあるけど、スタンスは、プロデューサーとしての視点だから。それは俺と同じだから、もめようがないんですよ」

出会いは地元・静岡、高校1年生の時だった。ニューウェーブやテクノといった新しい音楽に興味を持ち始めた高校球児の瀧を、同級生が「中学の友だちで詳しい奴がいる」と、卓球の部屋に連れていく。そこでイギリスのニューウェーブバンド、ニュー・オーダーの「BLUE MONDAY」を聴かされた瀧は、大きな衝撃を受ける。その日から、部活が終わると延々と自転車を走らせて卓球の家まで行き、日付が変わるころに家に帰る生活が始まった。

「うちから学校まで、自転車で山を迂回して、45分ぐらい掛かるのかな。で、こいつんち、その帰り道とは全然違うルートだから。レコードを聴いたり、サブカルの本を読んだり、バカ話したり」

卓球「ほぼ毎日来てたよな。うち、たまり場になってて、毎日来る友だちがいっぱいいたから。俺が知らない奴もいたし。瀧、来るとカセットテープを置いてくの。『これにこれとこれを録音してくれ』って」

卓球は、部屋にたむろしていた友人たちを巻き込み、バンド「人生」を始める。音楽は卓球が一人で作ったバック・トラックを流し、歌は卓球が歌い、あとのメンバー数名はステージで奇声を発したり踊ったり。バンドと呼ぶにはあまりに型破りだった。やがて当時インディーズ・ブームの中心的存在だったナゴムレコードを主宰していたバンド「有頂天」のケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)に見いだされ、レコードをリリースするようになる。

石野卓球(中央左)とピエール瀧(中央右)。1989年、人生で(写真提供:ソニー・ミュージック)

高校卒業後、2人とも上京した。瀧は音楽のために東京に来たわけではなかったという。

「俺は専門学校(臨床検査技師の学校)で出てきたから。ただ東京にいるから、じゃあ(人生を)やろうか、って感じかな。人生のメンバーで東京に来たのは、卓球と俺と、あと1人だけ」

人生はインディーズで有名な存在になるが、限界を感じた卓球は1989年に解散を決め、同時に電気グルーヴを結成。卓球が最後に声を掛けたのが、専門学校を中退し、ミュージックビデオなどを作る映像制作会社でアルバイトを始めた瀧だった。なぜ瀧だったのか。卓球いわく、勘のようなものだったという。

卓球「もう一人キーボードが要るなとか、ギターが要るな、ってメンバーを決めていって、何か一つ足りないな、『あ、瀧だ』っていうことだったのかな。人生のころ、瀧は何もやらないし、デクノボウの代表だったのね。人生から電気(グルーヴ)に変わる時、友だちが俺に『なんで瀧に声を掛けたの?』って聞いたんだって。そしたら俺が『なんか分かんないけど、必要だったんだよね』みたいなことを言ったらしいんですよ、覚えてないけど。自分でもよく分かってなかったんだと思う」

テレビから距離を置き、テクノを日本へ

電気グルーヴがスタートして間もないころ、卓球は「N.O.」という曲を作る。ひたすらにナンセンスだったそれまでの作品とは異なる、自身の内面を吐露した歌詞と、キャッチーで叙情的なメロディー。現在まで、電気グルーヴとファンにとって重要な曲であり続けている。

卓球「『N.O.』は家で作った。笹塚で、4畳半で、カーテンがなくて、ブルース・リーのポスターが貼ってあって。共同玄関のアパートで家賃が5万3000円。人生だったらできないけど、これを機に、自分の気持ちを吐露した作品もできるんじゃないかって思ったのかな。それまでは『キンタマが右に寄っちゃった』とか、そういう曲しか作ってなかったから」

このころ、元々大好きだったニュー・オーダー(瀧に初めて会った時に聴かせたバンド)のライブ映像を改めて見たことも、卓球に大きなインスピレーションを与えたという。

卓球「高校生以来、久しぶりに見て。ほんとにヘタクソだし、楽器のプレーヤーとしてはアマチュアレベルだったりするんだけど……具体的に言うと、曲が三つのコードの繰り返しで進んでるんだけども、その中にメンバー各自のフレーズが交互に出てきて、それで曲が成り立っていて、シンプルで……っていうのが、楽しそうに見えたのね。『ああ、音楽ってこういうもんだよな』と思って。それで『N.O.』の間奏も、思いついたフレーズをそのまま弾く感じにして。それまでは『これでいいのか?』みたいに、何度も何度も考えて弾いたりしてたのが、吹っ切れて」

電気グルーヴは、結成直後にメンバーが変わり、石野卓球、ピエール瀧、CMJKの3人になる。1991年、アルバム『FLASH PAPA』でメジャーデビュー。すぐにCMJKが脱退、まりんこと砂原良徳が加入した。

トークの面白さや過激なキャラクターが支持され、音楽雑誌の表紙を飾り、ラジオでは『オールナイトニッポン』のパーソナリティーに抜擢された。テレビの音楽番組だけでなく、バラエティーからも声が掛かるようになる。ダウンタウンの番組では、ダチョウ倶楽部と3対3で対決するコーナーが組まれた。

しかし、卓球は、ラジオはともかくテレビは、決して好きでやっていたわけではないようだ。

卓球「テレビ、嫌いだった。でも、テレビはすごい力持ってたでしょ。実際テレビのタイアップ曲って売れてたじゃん、100万枚だ200万枚だって。うちらの『スネークフィンガー』って曲がさ、バラエティー番組のオープニングテーマに使われたんだけど、『痩せない 痩せない 痩せないよ』って歌詞が、思春期の女の子たちにネガティヴな印象を与えるとか言って、『負けない 負けない 負けないよ』に歌詞を変えられたんだよ? 違う商品じゃん。だから、テレビがほんっとイヤだけど、そこを通らないわけにはいかないっていうさ。スネ夫みたいな感じだった。金持ちのいけ好かねえ息子っていうか」

『ポンキッキーズ』などに出演していたピエール瀧以外の2人は、テレビから距離を置くようになっていく。そのころ、卓球はロンドンへ遊びに行き、テクノ・ミュージック、クラブ・カルチャーに衝撃を受ける。そして、その方向へ舵を切り、4thアルバム『VITAMIN』を作った。

1995年の2人。グアムで(写真提供:ソニー・ミュージック)

さらに、『電気グルーヴのオールナイトニッポン』で毎週テクノの新しい曲をかけたり、『電気グルーヴのテクノ専門学校』というコンピレーション・アルバムをシリーズ化したりするようになる。テクノそのものを日本に広げていくような活動にも見えた。

卓球「活動しやすいように土壌を変えていこうとか、そこまでは考えてない。結果そうなったけど。中学生の時にやっていたことと一緒で。横浜銀蠅を聴いてたヤンキーの連中と、YMOを聴いてるオタクっぽい連中、俺、どっちも友だちだったから。一緒に遊ぶのはヤンキーの方が面白いじゃん。でもセンス悪いじゃん。で、オタクはセンスはいいけど、遊んでて面白くないじゃん。だから、ヤンキーにYMOとかニューウェーブを聴かせて洗脳するっていう。未知のもの、楽しみ方が分からないものを『この角度から聴くと楽しめるでしょ?』って伝えればさ、難しいもんじゃないから。みんなでワイワイやった方が楽しいじゃないですか。それはDJも同じ考えだし」

「昔、こいつの家に行けばめずらしいレコードを聴けるし、説明もしてくれるわけじゃん。でも、レコード屋に行ってもコンパイルされたものって売ってなかったし、ラジオで教えてくれるものもなかったから。もし今、昔の自分たちみたいなのがラジオを聴いてたら、こういうのがあったらありがたいと思うだろうな、って感覚で。田舎の子にしてみたら、地元のレコード屋に行って注文すると手に入るっていうことが大事だから。そのために『テクノ専門学校』っていうアルバムにしたんだよね」

ドイツのフェスで体験した5分間の地獄

1997年、シングル「Shangri-La」が50万枚を超えるヒット、アルバム『A』も35万枚を超えるセールスを記録。その前後に、電気グルーヴは海外での活動に目を向け始めていた。

1995年のシングル「虹」が、ドイツのテクノ・レーベルMFSからアナログリリースされ、8万枚を超えるヒットになると、まず卓球がDJとしてドイツに呼ばれるようになる。100万人以上を動員したドイツのテクノ・フェス「LOVE PARADE」でもプレイし、ヨーロッパ全土にその存在が知られていった。

卓球「自分の音楽は、国内がメインじゃないってずーっと思ってたから。やっと来たか!っていう。『よおし、ここから!』っていう感じだった。武者修行っていうか、すごくためになりましたね。『LOVE PARADE』がテレビ中継されて、ヨーロッパ中の人が俺のことを知ってたから、ブルガリアだのハンガリーだのまで、呼ばれて行ったり」

1999年、LOVE PARADEのArena Berlinでの石野卓球(写真提供:ソニー・ミュージック)

「石野卓球はバンドもやっている」ということが知られ、電気グルーヴとしてもヨーロッパのフェスなどに呼ばれるようになる。この時期にまりんが脱退、後任は入れず卓球と瀧の2人になった電気グルーヴは、サポート・メンバーDJ TASAKAとの3人編成で、ヨーロッパ各地を回った。

「海外だって、人生のころだって、俺は手ぶらでステージに出ていくのは変わりない(笑)。ただお客さん全員俺のことを知らない、電気グルーヴがどういうことをやるのか知らない、っていう人たちの前でやると、どういう反応なのか――最初は戸惑ってた。それがキーになる曲のところでドーンと上がったりすると『捕まえた!』っていう感じもするし。とにかく、日本にいる時みたいに『N.O.』歌えばなんとかなる、みたいなのが一切ないからさ」

1998年、MAYDAYでのピエール瀧(写真提供:ソニー・ミュージック)

当時の2人の約束事は「ステージでお互いを見ないこと」だったそうだ。

卓球「見たら支え合っちゃうから。なあなあになる。それはダメ、とにかく度胸を付けるっていう。だって、『MAYDAY』(ドイツの巨大屋内フェス)で、ドイツ人3万人の前に出ていって、やろうとしたら音出なくて、5分間音出なかったことあったもん。地獄でしょ? しばらく夢見たもん、俺。3万人のドイツ人が最初はワーッて言ってるんだけど、途中からブーイングになっていくんだよ。地獄! あれに比べたら何も怖くない」

1999年、MAYDAYで。左から、石野卓球とピエール瀧(写真提供:ソニー・ミュージック)

国内では、1999年から卓球のオーガナイズで、オールナイトの屋内テクノ・イベント「WIRE」がスタート。2013年まで毎年開催を続けた。

卓球「現場で音を聴かさなきゃ意味ないから。『MAYDAY』に行って、屋内でこういうのが成立するんだったら、日本でも絶対あるべきだって思ってさ」

「海外のDJたちが、ヨーロッパだったりアメリカだったり、毎週毎週いろんな国で、メガパーティーをやってる。ハブ空港をDJが飛び回ってるみたいな感覚だったの。だったら日本にもハブ空港がないと、DJたちがやってこない。受け入れる土壌がないとダメじゃんね、みたいな。WIREはそういう役目を果たしたんだと思うけどね」

この組み合わせじゃなかったら、破綻している

海外での活動が一区切りついた2001年、電気グルーヴは活動休止をアナウンスする。以降、丸3年は活動が完全に止まった。電気グルーヴとしてのオリジナル・アルバムのリリースは、8年も空く。

2006年、フジロックフェスティバルで、本格的に再始動した。

卓球「久しぶりにフジロックから声がかかって。正直、荷が重かった。その時期は、電気っていうでかい看板が邪魔、とは言わないけど、どうしたらいいのか分かんなかったっていうか。なんとか考えたのは、電気の新しい方向性を出すとかじゃなくて、今ある素材、今のやり方で、ここまでの電気を提示しようっていうトライ。で、やってみたらいいものができたから、ずいぶん楽になりましたね。『よし、これで新曲を作ろう!』っていう感じになった」

電気グルーヴが止まっている間も、卓球のDJとしての活動は充実していた。一方、90年代後半から始まっていた瀧の俳優業も、2000年代の半ばごろに本格化していく。

「前は、イレギュラーというか、向こうも異物がほしいんだろうなっていう感じだったけど、『ローレライ』(2005年)とか『三丁目の夕日』(『ALWAYS 三丁目の夕日』、2005年)とかの大きい作品に出てから、変わっていったのかな。映像制作会社でバイトしてたじゃない? 電気がデビューするんで1年でやめちゃったけど、そういう仕事もやりたかったから。要は、現場を見たくて行ってるんだよね」

生活面で電気グルーヴに頼らなくてもよくなったのは大きいと、2人は口を揃える。「自分の食い扶持が電気の活動オンリーってなってたら、たぶんもう続いてないと思う」と瀧は話す。

電気グルーヴの所属レーベル、キューンミュージックのチーフ・ゼネラルマネージャー、白井嘉一郎(51)は、こう語る。

「電気は本当に、偶然、天才2人が出会ったことによって、お互いが高まり合ったんだと思います。この組み合わせじゃなかったら、破綻してると思う。どっちかが倒れるとか、どっちかがやる気なくすとか。奇跡のような組み合わせじゃないかなって思いますね」

「今は『ちょっと間を空けませんか?』っていうくらい、作品ができてできてしょうがない、みたいな感じで。『曲、いくらでもあります』っていう。石野卓球はほんとに、生粋の音楽家だと思いますよ。常に音楽を作っている」

2019年の電気グルーヴは、まず結成30周年記念アルバム『30』をリリース、3月にはツアーも控えている。

卓球「僕ら、ずーっと人気者なんですよ。ほんとに! 人気落ちたことないんです、人生のころから。なんでか分かります? 魅力的なんです! これはもう、否めないじゃないですか? で、嫌いな人も多いでしょ? でも、なんか見ちゃうっていう(笑)」

白井はこうも言う。

「30年前に電気グルーヴっていう名前を付ける先見の明ってすごい。今、世界中の音楽、ほぼ、電気で作るグルーヴじゃないですか。コピーライターとしてのあの人たちのすごさ。言葉の強さっていうか、SNS時代でも電気が強いのは、そういうところだと思う」

名前と言えば、瀧は卓球の発案で、電気グルーヴの活動に限り、2019年の1年間限定で「ピエール瀧」から「ウルトラの瀧」に呼び名を変更している。2人はこう話す。

「俺が名乗る時はそう言ってる。面白いじゃん。俺は俺だけど、俺でもないっていうか」

卓球「そこが瀧のね、特異なところで。役者にでもなんにでもなれるっていう。『ピエール瀧』って名前に、元々思い入れがねえから。流れ流されここに来たから」

「自分で目指して来たわけじゃないからさ」

卓球「でも昔は、目指して来たわけじゃないからいつやめてもいい、っていうのがあったけど、今は『じゃあやめます』って選択肢は、もうないもんね」

「その選択肢さえも取り上げられた(笑)」

電気グルーヴ
1989年結成。91年、アルバム『FLASH PAPA』でメジャーデビュー。95年頃から海外でも活動をスタート。01年、活動休止。ソロ活動を経て、04年に活動を再開。以降、継続的に作品のリリースや全国ツアーを行う。15年には、ドキュメンタリー映画『DENKI GROOVE THE MOVIE?-石野卓球とピエール瀧-』が公開された。2019年、結成30周年記念アルバム『30』をリリース。「ウルトラのツアー」が3月に開催。


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